2018年3月18日(八段語録3232)
農作業からの発想
下宿業も六月で終了しますから、農作業はこれから趣味という事になります。
故郷に帰ってきてから、三十年も農作業を行ってきましたが、趣が変わります。
無理やりに農作物を作るという作業ではなくなってくるのです。
一年を通じて、喜びを感じて作業をするという事になるのです。
日曜日ですから、身体の疲れを取り除くために部屋でゆっくりしていました。
明るい日差しが、南の窓から差し込んできます。
朝方は零下四度近くまで下がっていましたが、一挙に気温は上昇しました。
梅の木の芽が、一輪、二輪とピンクがかった白い花びらを咲かせ始めてきています。
畑の畔には、草が若草色で一面を覆うようになってきています。
今日も機械を入れて、土を耕すという作業をしました。
草が広く根付く前に、畑を掻きまわして、柔らかくします。
ジャガイモや夏野菜が育つように土壌を豊かにするという事です。
当たり前に、この畑の作業は、誰かにしなさいという事で行っているのではないのです。
その農作業にお金が介入するはずもないのです。
ただ、楽しみだけが優先するという事になっているのです。
毎年、野菜を作っているので、作物を育てるという喜びも味わっているのです。
そのような農作業の時間を十分に持つことができました。
このような作業をしていても、心の中は、様々な発想をしているのです。
人生という限られた時間に、夢の虹を大空にかけ橋のように広げているのです。
いつも頭の中は、あらゆる生活舞台の環境に気持ちを馳せているのです。
もちろん、第一に浮かぶことは、世界中の道場生の事に思いを馳せるのです。
日本地図と世界地図、そして地球儀を部屋に置きながら、かつての思い出に耽るのです。
思い出から、今何をしているだろうかと推測するのです。
この活動は、予想以上にお金がかかるのです。
それを苦にもせずに、一年を計画して行動するのですから、資金がショートしないようにという事です。
別に、「金の成る木」があるわけでないので、しっかり経済基盤を維持する努力をするのです。
活動のステージを維持するという事が、このグループの発展になるのです。
それだからといって、無駄使いをできないという事も発想の中にあります。
このような人生設計をしているので、誰かの指示を受けて何かをするという事ではないのです。
どちらかと言えば、天地自由人で在り続けたいという欲求が強いのです。
そのスタイルを全うしたいがために、経済的困窮は避けたいものです。
だからと言って、不当な事をしようとは決して思わないのです。
確かにこの身一つしかないのですが、世界中を去来しているようです。
根白石の農地にいるのですが、心の中は、あっちこっちと浮遊しているのです。
それも、観光地を移動しているのではなく、道場生の姿を去来しているのです。
私であって私でないという感覚なのでしょう。
その基本的な感情は、愛情に根差しているのです。
決して、ビジネスマンではなさそうです。
たまには、悪いニュースも小耳にします。
それが「どうなんだ」と言わんばかりに、愛情として見渡そうとするのです。
年齢を重ねるという事は、視野が広がるという事にもつながるというものです。
それと同時に、心の広さも増してくるというものです。
というのも、今日の朝早くから、妻の千順さんから電話がかかってきました。
オッチョコチョイにも、道路に出るところで、物損事故を起こしたという事でした。
いつもの通り、一時停止をせずにぶつかったという事です。
それも、隣の住人の運転する車ですから始末が悪いのです。
ほとんどの事故は、妻の「あわてんぼう」な所からきているのです。
人身事故にならなかっただけでも、胸を撫でおろしたのでした。
それで、私の心はというならば、広い心のようです。
決して批判しようとはしないのです。
だからと言って、事故処理はしなければならないのです。
そして、今後事故のない運転を「どのようにすべきか」という事の対話は必要であるのです。
妻が起こした事故は、もう両手の指に近くなっているのです。
妻の事故の件も、心を馳せなければならない案件になってしまいました。