2018年3月15日(八段語録3229)
穏やかな春日和


 気温が二十度になりました。
日差しも、柔らかく花曇りなのです。
農作業の身支度をして、農地に出向きました。
耕運機で土壌を丹念に整地するのです。

午前中は、耕運機を動かしていましたが、午後は草刈機で畑の周りの雑草を整えるのです。
ちょうど梅の木が、数本ある場所の下草を綺麗に取り除くと美しくも見えるのです。
庭のように見栄えが良くなりました。
ちょっと作業を休めると、畑から蔵王連峰が遠くに見え、近くは泉ヶ岳が雄大に映ります。

機械で農地を耕すので、額に汗が滲み出て、しまいには顔中汗だらけになるのです。
もう上半身は裸になって、滴り落ちる汗を拭きながらの作業になりました。
二リットルのペットボトルが、夕方には無くなってしまいました。
農作業で自然と向き合うと、煩わしい事は消えて何もなかったように思えるのです。

部屋の中と農地の大地とを比較するまでもなく、心を大地は迎えてくれるようです。
それも、包んでくれるような温かさを感じるのです。
その中で、汗を流すのですから、爽快に気持ちは高揚してしまいます。
夕日が沈みかけて、周りが暗くなるまで農作業を続けてしまいました。

 さて、自然の中に抱かれるという状態は、実に嬉しいものです。
農作業は、農家であるからという特権みたいなものです。
母なる大地に抱かれるという事に、何とも言えない心地よさを感じてしまうのです。
抱かれると、開放感が漂い、幸福がそこに待ち受けているように思うわけです。

もちろん、私を中心に宇宙は動いているとは思っていませんが、しかしそれに近いのです。
自然の中に溶け込むという事は、私を中心に愛情が注がれていると感じてしまうのです。
なんと贅沢な時間を過ごしているのだろうかと、おもむろに浸ってしまいます。
自然は、いつまでも、包んでくれて、決して私を離さないように感じてしまいます。

自然と関係を結べば、些細な「いざこざ」に心を奪われずに済んでしまいます。
私が農作業で自然に働きかけると、自然の息吹が返ってくるのです。
こちらが、愛情をもって対応すると、答えてくれる大地である自然なのです。
煩わしい人間関係や、何のお世辞も要らないのです。

また、自然は正直なのです。
野菜の種を植えたなら、間違いなく芽を出して、成長してくれるのです。
人としての役割は、野菜の芽がしっかり成長するように雑草を取り除くだけなのです。
大げさですが、自然が私の中に取り込んで、収納されていくような錯覚にもなります。

そんな訳で、生活の為の農業ではなく、贅沢にも趣味として農業をしているのです。
もちろん、収穫物は近所や仲の良い友達に配ってしまいます。
それも、良くできたとお褒めの言葉を頂きながらなので、いい気分なのです。
このような自然の恵みを、身近な人たちに配ることができるのは感動ものです。

野菜を作ってみて、大地の恵みを独り占めという事でしょう
そして、私の中で大地の恵みの野菜が、吸収されて血となり肉となるのです。
人の手を入れるという事は、大自然を色々な形で取り入れるという事でしょう。
そんな気持ちを十二分に味わることができる自然環境の農地という事です。

どんな公式を適用していいのかは分かりませんが、畑を所有している恩恵です。
所有が、立派な私のパートナーになってくれていると理解するのです。
畑にて大声で歌っても、誰からも文句が来ないのです。
上半身裸でも、何の違和感もないという事です。

誰かが隣にいたならば、何か言われそうですが、一人で耕す所有地でありますから自由です。
心の開放は、農地としての大地である実感するのです。
歌って踊って、転がっても、農作業をしているならば、気が違っているように見えないのです。
自然に酔って、心の垂直と水平がかみ合っていて、心に宮殿でも立ちそうな気になります。

 日が落ちるまでの農作業は、何とも言えない幸福感を得ることができました。
垂直と水平がしっかりと基準として立てば、強い建物になりうるのです。
ストレスや現代の不合理にも負けない心の宮殿ができそうです。
そのような意味でも、農作業をするという事は、実に良いのです。

滅茶苦茶な人生を過ごさなくても良いという事です。
また、人生に対しても失望することもないのです。
年齢が高くなるにつれ、身体の機能低下が続きます。
それも受け入れながら、自然に包まれたいという思いになったのです。