2018年3月14日(八段語録3228)
分かち合い


 公立高校の入学発表がありました。
両親は緊張した日々を送ったのですから、合格発表が家族のドラマになるという事です。
道場生で挑戦して合格という知らせもありました。
様々人生のドラマが瞬間に結実して繰り広げられているという事です。

結果はどうあれ、勝負したのですから、それに合わせて次へのステップへ上がるべきです。
それでも、道場生の指導者として、喜びも痛みも感じるというものです。
試合でも、道場生の戦いぶりに一喜一憂するのが指導者というものです。
それが、道場生を愛する指導者としての人生の醍醐味というものです。

また、大学入学にチャレンジして合否を決した道場生もいました。
入学試験の季節が終わり、新しい門出を祝って更なる飛躍を願うのです。
勝ち負けは人生に付き物です。
負けたからと言って、悲観することは全くないのです。

成長は一瞬でなされるのでなく、期間があるのです。
重要な事は、どれだけ高い意識をもって、夢を実現していくかという事です。
不足があるならば、その都度ごとに補えばよいという事です。
ただ、夢の実現のために日々努力を重ねるという事なのです。

 さて、もう私には、高校入試も大学入試も過ぎ去ったことです。
それでも、いまだ夢を捨てない私にとって、知識の習得に関しては飽くなき挑戦です。
この年齢になると知識の入手より、忘却の方が多くなってきています。
それだけに、チャレンジしてあらゆる情報を獲得することに忙しくしています。

理由は、多くの人の為に役立ちたいからという事です。
例え、高齢になっても、それなりに貢献したいという思いが強いのです。
自分を主張する代わりに、多くの人の役に立つ生き方に徹しようとしているのです。
自分という概念を、どれだけ人の為に役立つかという事に特化しているのです。

当たり前に、生まれたときは、自分という概念が無かったのです。
父親の精子をもらって、母からあらゆる肉体の構造を頂いて、お乳を飲みながら育ったという事です。
まったく、自分一人で育ったという事はないという事です。
母親の延長である骨であり、血であり肉であるという事です。

そんな事を考えただけでも、誰かの役に立つ人生を選択せざるを得ないという事です。
家族のため、道場生の為に何かをして上げようとするときに、力が出るというものです。
その為に、自分自身が先頭を切るという事を率先するという事です。
自分一人が成長して完熟するということで、ますます他人に興味を抱くという発想なのです。

 ところで、そのような生き方は、変り者だという事になるのでしょうか。
とんでもないことです。
家族や道場生の為に道を開くという生き方はとても快感なのです。
この上なく、自己の能力を最大に発揮するのです。
というのも、誰かの為に自らを磨くという精神が何とも言えない力の源泉なのです。

いままでの人類の財産を取得しながら、子孫に繋いでいくという発想です。
それも、全身全霊、五官を総動員して対応するのです。
確かに、人類の財産を自分のものにするかのようにしていますが、動機が問題です。
自己中心では終わらないのです。

確かに泥棒根性が旺盛という事もあります。
経済を豊かにするのも、知識を獲得するのも多くの人の為と思えば許されるように思うのです。
飽くなき挑戦は、この年になっても続きます。
一日中、茫然とはしないのです。
この姿勢は、年齢を重ねるたびに貪欲になってきています。
そのような生き様の私ですが、まだ許されて生命を維持しています。
有難いことです。