2018年3月7日(八段語録3221)
原型


 午前中に中学校の同窓会入会式に来賓として招かれてきました。
総勢230人程の中学校を卒業する子供達です。
この中学校の卒業生が、三万人以上になるという事ですから伝統があるというものです。
私も、五十年前に卒業しているのですから、長い歴史を感じるのです。

私の時代は、七百人を超える卒業式でした。
比較するまでもなく、少子化が進んでいる現状があるという事です。
子供達は、日本の宝ですから、子供達が増えることが何よりなのです。
日本の将来のためにも、安心して子育てができる環境が願われるというものです。

こうして、同窓会の先輩格になるという事は、子供達の道標にもなるのです。
昨日は、公立高校の後期の入学試験がありました。
試験が終えて、清々しい子供達の顔になっていました。
緊張から解き放され、結果を運に任せて参加しているようでした。

この中学校は、私の母校ですので、校門を通過しただけで昔の私の姿がよぎります。
子供達は、これから様々な道に進むことでしょう。
それだけに、先輩としての風格を示して少しでも力になることができればという気持ちでいました。
卒業式を前に子供達の輝く瞳を眺めながら、未来を託すような思いで参加させていただきました。

 さて、極真という道を歩んだ私の人生ですが、子供達を前にして考えさせられました。
この生き様は、角張ってもいたし、丸くもあったし、平でもあったという事です。
極真空手という定義はあるのですが、それでも極真という私の人生の定義を下さなければならなければならなかったのです。
振り返れば、ある一定の制限を加えての人生を過ごしたことになるのです。

その制限は、最近のアイドルグループでもあるようですが、恋愛禁止という事でした。
修行の道を歩む坊主のように、女性は極真の修行に妨げになるという信念でした。
今の時代の子供達からするならば、バカな事のように思われるかもしれません。
甘い密のような誘惑は、修行には邪魔という信念からだったのです。

思い出せば、空手の修行をするということで、幼なじみの人から離れたものです。
一人修行という目標を抱いて、日々修練に明け暮れた人生という事でした。
それでも、一人前の有段者になったのは、二十八歳の三月でした。
黒帯を締めた時には、天にも昇るような晴れ晴れとした気持ちになったものです。

そこで、途切れることなく、全日本大会に毎年出場することを決意したのです。
勿論、地方大会を勝ち抜かなければならないので、必死に稽古を重ねたのです。
その修行を重ねていくうちに、現役の限界の三十四歳になっていました。
この年齢で出場するという事は、当時は最年長という事で紹介されたものでした。

もう一つ、制限したことは、暴力についてという事でした。
肉体も強化され、極真ボデーそのものになっていったのです。
それだけに、生きた凶器そのものという事の自覚なのでした。
また、言葉で人を傷つけてもいけないという事で、言葉の暴力に関しても注意したのです。

つまり、肉体と精神の暴力に関しての制限をしたのです。
特に、精神面の暴力に関しては、後輩に対することで起こりうると思ったのです。
この件の解決に関しては、デールカーネギーの人を動かすという本が役に立ちました。
人間関係のバイブルのように、しっかり何度も熟読したものです。

もちろん、金銭面では節約を旨としたのです。
一か月の小遣いは一万五千円と決めて、その中での消費でした。
修行でお金を持てば、必ず無駄遣いをして、時間に隙が出るという発想でした。
一日五百円で、昼飯も入っていましたので、二百円の吉野家の牛丼が役立ちました。

このような自分で決めた制限が戒律のように自分自身を正したことになったのです。
このように徹底できたのは、両親の教育があったからという事でしょう。
我が家で暮らした日々を振り返ると、小学校高学年から新聞配達をしていたのです。
それも、すべてのバイト料は、母に捧げていたのでした。

これが、誰でもそうできるかというならば、難しい話です。
それでも、生き方の原型になるのではないかという事です。
そんなことを考えながら、同窓会の入会式に臨んでいました。
数学なら公式、物理なら公理というものがあるという事でしょうか。

そのような意味では、人生を生きる上で、メジャーやスケールになるように思うのです。
力を連結させて、地域や社会に貢献できる生き様の形になるように思っているのです。

人生を過ごしてみて、バランスが取れたように思っているのです。
もちろん、社会に飛び立つ子供達にとって釈迦に説法かもしれません。

それでも、私自身、自分の人生の誇りを持っているのです。
24金のような輝きがあると勝手に思っているのです。
人間として、この空間と時間に変わらない生き方をしたという事です。
どんな立場に立っても変わらない生き方ができたのではないかと思っているのです。

価値ある人間を探して子供達は、日々歩み続けると思うのです。
もし、極真の門をたたくようなことがあるならば、こんな指導者の影響を受けるかもしれないという事です。
生命を持った人間は、自他共にかかわらず、一生懸命に生きるように仕向けられるはずです。
そのようなことならば、一つの参考になるのではないかという事で、表現したのでした。