2018年2月10日(八段語録3200)
私の所有と財産


 所有や財産といえば、家とか土地とか証券とか金目の物を思い描きます。
ところが、私にとっては、物ではないのです。
どちらかというならば、人の輪に目が行くのです。
どれだけ、多くの人と接触することができるかという事を、所有と財産にしているのです。

多くの人との出会いが、自分の財産と決めているのです。
特に、極真会館手塚グループの道場生が財産なのです。
もちろん、所有しているという気持ちにもなるのです。
人生を振り返っても、自分のレベルに合致するのが、極真会館手塚グループなのです。

青春の全てを投入して歩んできた道を、今となっては、多くの道場生が共有してくれているのです。
広い世の中では、極真という道は、一点でもあるようですし、強いて言えば縦軸なのです。
この道を誤ることなく、この一点をそして、一直線の縦軸を六十五歳まで歩んできました。
当然、誇りを持っているのです。

指導者になって、道場生からは、「どうしてこのように引っ張って来たの」と言われるかもしれません。
今の立場は、道場生に道を指し示すだけの責任があるのですから仕方がありません。
それだけに、道場生のレベルには合わせないで、極真魂の本質に向かわせるのです。
もちろん、最強の肉体と精神を目指させるという事になるのです。

 そのレベルにたどり着くには、簡単な事ではないのです。
しっかり日々稽古をしなければ到達できるものではないのです。
級や段位を上げるという事は、極論をすると私と同じ道を行くようにという指示なのです。
レベルを上げることに、私が味わった歓喜を道場生に味わってもらう事になるのです。

もちろん、極真の伝統は、私だけの為のものではなく、道場生が共有するものなのです。
大山総裁が道を開き、手塚会長が整備してきた道なのです。
そのような精神が充満しているのです。
そこに合格するように、日々の稽古をするという事なのです。

ちょっと強くなったからと言って、思い上がることなく道を究めるべきです。
また、指導もある程度できるようになったからと言って、傲慢になるべきではないのです。
人生がある限り、この道を歩むのに価値があるのです。
私自身、この年齢になっても一介の修行者に過ぎないのです。

生きている間、修行は続くのです。
年齢に応じた修練の道標を示されているのが、この道なのです。
段階ごとに合格した後、また歩めば間違いないという結論を持っているのです。
途中で道を外してしまうと、取り返しがつかなくなってしまうのです。

 ところで、私の実感したことは、道場で稽古をした分だけ報われるというものです。
稽古をするという軌道に乗っていれば、充実するようになっているのです。
その稽古でも、試練は必要以上に付きまといます。
私の弟子の中にも、道を外れてしまうような過ちを見てきました。

例え、自分が「良し」として外した道を歩んだとしても、良心に引っ張られて後ろめたいのです。
間違いなく、審判されるような選択の時があるのです。
せっかく道場で稽古を続けているのですから、花を咲かせ結実してもらいたいものです。
その為の、たゆまぬ稽古であるのです。

極真空手は、稽古を離れては成立しません。
絶対に稽古が必要なのです。
もちろん、道場だけが稽古ではないのです。
自分の部屋で鏡を見ながら稽古をすることも必要でしょう。

道場で稽古をすることと、自主トレすることの、行ったり来たりが必要です。
道場での稽古、そして自主トレを組み合わせながら、自己を確立させていくのです。
必ず、極真会館手塚グループに籍を置いて、来るべき時に備えるのです
その事を意識した道場生が、最後は勝つのです。

 私は、そのように道場での稽古と自主トレを並行して行ってきました。
決して極真会館から離れようとはしないのです。
どんな誘惑にも負けないのです。
何故ならば、この極真を所有しているという気持ちに満ちているのです。
そして、極真会館手塚グループの道場生が私の最高の財産なのです。