2018年1月13日(八段語録3182)
鏡開き


雲一つない晴天の朝です。
道場生とその家族を合わせて、六百名が会場を埋め尽くしました。
2018年の最初の公的行事がグランデー21での鏡開きです。
いつもながら、道場生の今年にかける決意が顔の表情に滲み出ています。

幼年部・少年部・中高生・一般に所属する核になるメンバーの集合です。
それを指導する有段者が前面に対応して気合を入れています。
毎年、道場生が成長していく過程が配置図の移行からも手に取るように分かります。
御両親から預かって、責任をもって成長させているという気持ちになります。

この光景を毎年欠かさず眺めているのです。
どの指導者の姿を見ても、自然に充実感が湧いているようです。
習い事の領域は遥かに超えているのです。
人生を歩んでいくうえでの魂を司るのが、極真精神である協調するかのようです。

今年は会長としての立場で臨ませていただきました。
それだけに、現場の師範は更なる重責を背負うという事になります。
私が指導してきた道場より、何倍も発展すると直感します。
次に担う事になる師範は、今まで私の指導の全てを継承しているのです。
さらに、その師範の創造性を加味したならば、発展せざるを得ないという事です。

 さて、今年も極真という精神に恥じない歩みをしようとしています。
もちろん、個人に限った話ではないのです。
グループ全体を越えて適用され、最大の価値を表現していくという事です。
ある国会議員のふしだらな私生活がマスコミを賑わせていました。

そのような世俗にまみれた修行の道が極真空手ではないのです。
誰もが好み、誰もが求めるものでなければならないという修行の在り方なのです。
それが、個人に当てはまるだけでなく、グループ全体に及ばさなければなければならないのです。

私個人の為に会長をしているのではないのです。
あくまでも、全体が極真精神で満たされるようにという事で、継承させていただいているのです。
私個人としては、グループ全体が極真精神で満たされるように努力するだけなのです。
それだけに、あらゆる努力を重ねますが、自らに対しては、反省がすべてになります。

その反省の原点が、極真という事なのです。
「真」であるべきという修行の在り方は、私の人生の礎になっているのです。
グループになると色々な課題も出てきます。
全体的に収拾して、指導することができてこそ、初めて決定的な基盤と認められるという事です。

 ところで、私が中心的立場であると誤解したら大変なことになります。
極真という名詞は成立しないことになります。
極真の起源は、大山総裁であり、手塚会長が継承してきたという事実なのです。
この起源から離れていくときに、極真ではなくなってしまいます。

そこには、極真ではない、邪な起源が生まれてくるのです。
極真があってこそ、極真の結果がもたらされるのです。
言い換えれば、伝統を正しく継承してこそ、極真の願いがなされるという事です。
それだけに、私を中心に極真が立てられるのでなく、今までの伝統を主軸に立てるのです。

それだけに、私が勝手に考えてこのグループを率いるのではないのです。
本部長を初め、スタッフの意見する所を大切にして、最終判断するというだけです。
それだけに、私が勝手に管理するような立場は、極真ではなくなるのです。
それ故に、極真という前に、屈服して尚且つ順応するという意識を持つのです。

今年一年の姿勢としても、また現実の生活においても変わらないという姿勢を保つのです。
漠然と習慣的に極真の指導をしようとは思わないのです・
極真の歴史の中で、正しいと導かれた事を中心に指導するのです。
それは、手塚会長が私に指導して下さったことが、中心になるのは言うまでもありません。

 一年の計は初稽古にありという事です。
それだけに、私を中心としたレベルは遥かに超えてほしいという事です。
あくまでも、極真の神髄を追及すべきことなのです。
私ではなく、極真を介在させて、自分にとっての理想の極真を目指してほしいのです。

世俗を眺めると、極真はなかなか出会わないのです。
あくまでも、修練の中で極真に出会って、悟りを開くという事になります。
最後の分岐点があるはずです。
決して邪悪な横道にそれることなく、全うして欲しいものです。

離れてしまった人たちの弁明の理由は何とでも付随させることはできます。
要するに、邪悪な自らを反省して道を究めていきたいものです。
それだけに、深刻な立場で、極真を通じて解決するという意識という事です。
孔子の「順天者は興り、逆天者は滅ぶ」という言葉を借りるまでもなく、極真を介在させての一年にしたいものです。

このグループの興亡盛衰は、私が左右するのではないのです。
極真が動機になって左右されるのです。
その極真の留まる生活をしようと心に決意する鏡開きなのです。
何処を開くかというならば、心の中という事です。
何の邪悪もない、深々とした位置に心にある心を開くのです。