2018年1月12日(八段語録3181)
誰からも愛される師範


 極真会館でいう師範という表現は、平素何気なく使います。
その言葉は、当たり前のように響きます。
そして、その道場での責任者であることで、いつも何かにつけ呼ばれるのです。
当たり前に、その道場の精神的レベルも師範が先頭を切ることは言うまでもありません。

本部道場で稽古していた時、大山館長は近づきがたい存在でした。
札幌の高木道場に移動してからの師範に対しても、尊敬の念しかなかったのです。
私自身、押忍という言葉を発しながら、恐れ多い気持ちになったものです。
そして、指導を受けた内容は、いまだかつてない内容と理念に満ちていました。

この道場で学ぶことは、どんな映像にも本にも表現されているものではなかったのです。
そのような環境の中で師範は、内容に対しては実に驚くべきものでした。
道場の指導者が師範という事でしたので、入門当時は神秘の目で見ていたものでした。
当時、道場生の空手に対する能力も半端ではなかったので、なお更に驚いたものです。

私自身が師範に関しては、特別な気持ちで覆われていました。
その師範という称号を四十八歳の時に、手塚会長から任命を授かったときには天地がひっくり返るようでした。
学位による税理士が手中に入ることを、思い描くことが吹っ飛んでしまったものです。
それだけに、三十年近くの間の修行時代の憧れであったという事です。

 さて、師範という立場に私は強いこだわりを持ったのです。
その為の内容を日々切磋琢磨して磨くという事が、日々の目標でもあったのです。
もちろん、選手として活躍することも眼中にありましたが、最終目的は師範でした。
何百人も束ねて、武道精神で貫く道場を夢見て稽古をしたものでした。

名前だけの師範という事ではなく、多くの道場生を指導する指揮官を描いたものです。
当初道場生で初めから師範にこだわった人は少なかったように思うのです。
空手のイロハも分からず何も無かったので、当然稽古に励みました。
ただ強くなるという事以上に意識したことは、指導者にふさわしい内容を身に着けるという事でした。

師範を目指していたので、通いたくない大学にも通って、学位を取得しました。
理想があったかので、学問も苦ではなかったのです。
学問としての経済学は、今のミッションに欠かせないものになったのでした。
師範を人生の最高の目標に置いていたので、当たり前に学位という装飾品をつけようとしたのです。
もちろん、税理士に関しても魅力がなかったわけではないのですが、キープという意味合いが強かったのです。

天職として、お金に纏わることをするよりは、人を育て動かしたいという欲求が強かったのです。
その為に、実際に人に携わることができ、人を育てるというミッションを、夢見ての選手生活になったのです。
それだけに、勝ち負けにはそんなにこだわることはなかったのです。
それよりも、師範という指導者になるという、とてつもない難しい道を念頭に置いたのでした。

 ところで、師範といっても、極真会館の師範にこだわったのです。
その立場に立っただけでなく、手塚会長の理想をも受け継ぐことを本望と思ったのです。
それもこれも、師範という立場という位置だけでなく本物を目指そうと心掛けたのです。
全てを任せられ、相談もされ、願われるような立場という事です。

そこで、私自身政治家は好きではないのです。
本当に信頼できる政治家としか付き合いはしていません。
それは、政治そのものが、賛成と反対に分かれるのです。
そして、好かれもしますが、嫌われもするのです。

私としては、嫌われるという立場は極力避けたいのです。
例えば、ある国の大統領が慰安婦の問題で決着しているのにも関わらず、要求するのです。
自国民にとっては人気取りかもしれませんが、私達にとっては迷惑な話です。
そのように、好かれもするけど嫌われもするという立場には立ちたくないのです。

それは、私が願う師範というレベルには合致しないのです。
誰からも尊敬されたいという気持ちが強いのです。
そんな意味合いでの職種が、政治家よりも極真会館の師範という事です。
それだけに、腹が無いといわれるかもしれませんが、私の性格ですから仕方がありません。

 結論として、極真会館の師範の立場は、ヨーロッパに行っても尊敬される師範であります。
もちろん、ロシアでもアメリカでも尊敬されるのです。
他の空手団体の師範であったとしても、別に嫌われる筋合いはないのです。
一方で好かれ、他方では嫌われるというポジションは嫌なのです。

世界を巡回して特に思う事は、誰からも尊敬されるという事です。
世界を相手にするだけに、誰からも愛される指導者を目指せるのです。
それだけに、誰からも嫌われずに、最高のものを提供できる道が師範ということです。

伝統空手の人であろうが、実践空手の人であろうが、尊敬してくれるのです。
確かに、政治のような幅はありませんが、専門的に特化した空手道という事でも尊敬されるのです。
それなりの距離感がありますから、ある程度の批判は覚悟しています。
それだからといって、慰安婦問題のようなこじれは無いのです。

それだけに、極真会館手塚グループの師範は、真の師範に近いと感じるのです。
かつて、手塚会長にも敵となるような人はほとんどいませんでした。
私自身、そのような敵がいない王道の師範を歩みたいという事です。
そんな夢を描きながら、今日も全力投入です。