2018年1月10日(八段語録3179)
ファミリー
正月二日には、兄弟三家庭が我が家に集まりました。
母親を正面にして和やかな雰囲気です。
私は長男ですから奉仕者です。
妻と一緒に接待をするのです。
回転すしチェーンの「きらら」から寿司ネタを注文してテーブルに並べます。
妻は、正月料理を大晦日から準備していたのです。
華やかな宴の始まりです。
毎年恒例に行われている新年の行事です。
私達家族は、息子家族と娘一人の出席です。
次女が「ザラ」というブテックでの仕事で初売りという事で参加できなかったのです。
次男家族は、福岡市に勤務している娘と一緒です。
三男家族は、東京に努めている長女と学生の次女が一緒に来てくれます。
兄弟が集まる習慣は、私が仙台に帰ってきてから始まりました。
年に二回は集まります。
大概は、正月とお盆という事になります。
そこで、屈託なく会話が始まるのです。
良く話すのは次男なのです。
三男は聞き手に回っておとなしくしているのです。
もちろん、女性陣は口から生まれたように話し続けます。
三家族が集まっていますが、男の子供は私の息子だけなのです。
その息子が子供を二人育てているという事もあって、話に花が咲くのです。
私の両親の教育が良かったのでしょう。
家督が中心にという発想なので、長男を重んじてくれるのです。
また、子供の頃は、私が兄弟を仕切っていたという事もあります。
だからといって、威張るわけにはいかないのです。
というのも、二十数年の間、家を出て親不孝を重ねてきているのです。
それだけに、私が弟家族に謙虚に振舞わざるを得ないのです。
おかげさまで、何の反感も抱かれずに今年も正月の集まりができたのです。
各家族に、様々な課題を抱えていると思うですが、笑顔であらゆる課題をクリアしているようです。
そして、明るい表情で今年を迎えることができたのですから、幸せという事です。
というのも、家族を持つ前は、私も含めてですが、兄弟共々色々な事がありました。
一つに、私が家出同然でした。
次男は製薬会社の華やかな営業をしていたのですが、行き詰っていました。
三男は自衛隊で幹部候補生という事で、プレッシャーが襲って大変でした。
兄弟同士、結婚するまでは波乱万丈であったのです。
それが、今となって丸く収まっているばかりか、家族を抱えて順調なのです。
それだけに、両親も安心したのでした。
この兄弟が集まる関係を、これからも続けていきたいと思うのでした。
ところで、このような関係を長年続けて来ることができた事に対しては感謝なのです。
兄弟が三人とも結婚して、子供を授かり、育てて成長させているのです。
どの兄弟家族も愛情に恵まれて、順調に生活しているのです。
私達兄弟の過ごしてきた波乱万丈の人生も、振り返れば良き思い出になります。
私達老いた兄弟だけでなく、子供たちを通じて繰り広げられる未来は、より大きく感じるのです。
血筋が繋げっていくという事は、未来に何かを託せるような気がするのです。
子供達は、より新しい希望を触発してくれるように感じてしまうのです。
私から、何かを継承してくれて未来を背負ってくれると思うわけです。
ひょっとして、私がやり残した夢を子供たちが叶えてくれるのではないかという期待も膨らみます。
昨日があれば今日があるのです。
それだけに、今日があるからには明日があるという確信に変わるのです。
そう考えると、私の人生死んで終わりではなく、託せる理想が連結されるのです。
兄弟家族を眺めるだけで、少なからず期待感になります。
大地の道理に叶うように思うわけです。
自然の森羅万象も、季節が変わっても終わらないのです。
そのような意味でも、子孫に託せる希望があるというものです。
結論的には、自分だけに留まらないのが家族のようです。
両親から始まって、私を含めて続いていくという事なのです。
家族とは、子孫たちに継続させるモデルのようなものだと思えるのです。
一人ではないという事を家族では言えるので、高齢になっている自分を励ますこともできます。
私の時代で留まらないから、体力が衰えようとも気力が充実するというものです。
ましてや、愛情という伝統が継続していくとするならば、有難いことです。
そう考えると、家族という単位は、ただ単なる集合体ではなく永遠に続くという起源のようです。
ちまたで持て囃されている家族に、同姓婚等というのがあります。
永遠性の無い関係は、滅びるという事でしょう。
確か渋谷区の同姓婚一号も別れたというニュースを小耳にしました。
私自身の気持ちとしては、このような兄弟家族の集まりが続いているのは幸せと思っているのです。
そして、家族の元で最後を終えたいという気持ちです。
人の一生で最も大切なのはというならば、生まれる時、結婚するとき、死ぬ時のように思うのです。
私の場合、二つは過ぎてしまいました。
残されたのは、死ぬ時という事でしょう。
それだからといって、死ぬつもりはないのです。
理想を引っ提げて、人生を突っ走ろうとするのです。
やり残したことに対する反転攻勢です。
そして、その理想が、木の根、幹、葉が一つの生命に繋がるように、家族で理想を繋げたいものです。
こんなことが、家族に対する私の今の思いという事です。