2012年8月13日(八段語録1773)

ラべリング(レッテル貼り)」


 これも、逸脱行為に関する理論という事なのでしょう。この内容が意味するところは、当事者の事実ではなく、周囲からのラベリングによって生み出されるものだ、と捉えるものであるのでしょう。例えとして、今まで、茶髪など不良であるように定義されていたことが、クラス全員茶髪にしてきた時代になったとしましょう。かつては、“髪を染めている者が「不良」だ”などと勝手に定義することによって「不良の定義は、客観的に成立する」としてしまうような、非常に単純な考え方をしたということになります。それが、時代の流れに従って、その考え方を排し、いつしか、全員が茶髪にするような時代になったりすると、誰も茶髪を不良と定義するようなことがなくなってしまのです。逸脱などの行為は、他者からのラベリング(レッテル貼り)によって生み出されるということにしたのです。
社会は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人々に適用し、彼らにアウトサイダーのラベルを貼ることによって、逸脱を生みだすのです。当然、殺人を犯した人を殺人者とレッテル貼りすることはできないのです。あくまでも逮捕されるとか、表面化した時に殺人者と表記されるようになるのです。そしてレッテルを殺人者とするわけなのです。
このことは、従来の逸脱論が逸脱者にばかり着目していたのに対し、規則をつくり執行する人々と逸脱者を対等に扱い、双方の相互作用過程として逸脱を捉えているのです。実際は、逸脱者を対等に扱うという事はしないのです。今回の福島の原発付近の子供達が、各地に疎開した時、いじめの対象になったのです。一方的なうわさで、いかにも放射線が移るように、忌み嫌われたのでした。私も震災当時千葉の成田空港へ行ったのでした。その時、震災で大変ですねと声をかけられ励まされました。ところが、福島ナンバーの車から降りてくる人に対しては、そのような声をかけることもなく、近づかないようにしている人が多かったのです。これは、マスコミやあらゆる流言飛語がもたらした、ラべリング(レッテル貼り)の影響によるものだと思われます。
 私も、極真会館に入門当時、全日本の第一回の選手権大会がおこなわれたのですが、朝日新聞をはじめ、多くのマスコミがこぞって「直接打撃性だから、多くの死者が出るとか、この武道は現代に合わない。」というキャンペーンを貼ってきました。それが、「地上最強の空手」が映画化され、大ヒットすると、今度は、賛辞を高らかに歌うのです。まして、少年マガジンには連載され、一躍有名になってしまいました。そんなあやふやに評価するのが「ラべリング(レッテル貼り)」という事なのだと思われます。