2012年8月10日(八段語録1770)

R・マートン


 「三歳児神話」を信じた人々は、「母親一人によるつきっきりの育児」が子供の成長に望ましい影響を与える(順機能)と考えて、意図してそれを行った(顕在的機能)、しかし実際には、そのような育児は、母親の育児不安を引き起こすことによって、子供の成長に望ましくない影響(逆機能)を与えたが、人々は初めのうちはそれに気づかなかった(潜在的機能)
この事例は、R・マートンの機能分析では、その結果が望ましいものである順機能とそうでない逆機能、その結果が知られている顕在的機能とそうでない潜在的機能の区別が提唱され内容なのです。たとえば、その結果が知られておらず望ましくない働きをあらわす場合、潜在的逆機能といわれるわけです。彼の機能分析のねらいは、「意図せざる結果」を明らかにするのです。
ところで、私の発想は、真っ向から対立するものとなります。子育てに関して、不測の事まで考えて育児して概念の中に予測するとしたら、子育てに不安を感じるばかりです。つまり、熱心に子育てをすることができない事になります。単に不安をあおるばかりです。子育てに関しも、継続的な維持・安定に貢献するものでなくてはならないと考えるべきでしょう。確かに、マイナス面は全ての事に関して、潜在的にあることは事実なのです。しかし、どちらかというならば、プラス面の貢献度を中心に、「三歳児神話」を実践すべきであると考えるのです。
 私の場合、子育てでは、当時潜在的逆機能として、「窒息死」を取り上げた方法を実践したのです。要するに、乳幼児を仰向けではなく、うつ伏せに寝かせて、育てる試みでした。良さは、数多あったのです。頭の形が良くなること、顔が引き締まること、腕の力が付くことが挙げられていました。しかし、マスコミは、潜在的逆機能が顕在化した「窒息死」を最大限取り上げていました。それでも、私は、信念を変えずに、うつ伏せで三人の子供を成長させたのです。結果、後悔はないという判断です。
R.マートンの発想は、知識としてそのような事もあると留めるだけにした方が良いと思います。ある意味で、判断の過程的なもので、「三歳児神話」を実践したのならば、最後まで実践し通すべきでしょう。その時に、課題を解決すべきとすべきでしょう。そのような意味では、単に不安を抱かせかねないというのが私の主張です。