2012年8月9日(八段語録1769)

犯罪の正常性


 ありえない事を説明することは、私にとって苦痛のないものでもないのです。この内容を取り扱うとするならば、社会学という、人間本来からするならば、逸脱論であると思えるのです。異常で病理的とされる社会的事象の研究を行なうものでしょうが、一般の常識ないし偏見から離れた観点から考えたのでしょう。ある意味で、より偏屈な態度で臨むということなのでしょう。つまり、ある社会において逸脱として定義される事象は、別の社会では必ずしもそうではないという事を主張したいのだと思います。
聖職集団と犯罪集団の例を挙げての説明は滑稽にも思えます。このような逸脱論の暗黙の目的は、正常な社会の有する諸現象に、闇から暗闇を放って、明らかにすることにあるのでしょうが、ちょっと飛躍がありすぎるように思えます。つまりは、なぜ種々の事象が逸脱として扱われるのかを問うことで、どのようにして種々の社会が機能しているのかを考えようとしたのでしょう。
フランスの社会学者Eデュルケームが、「犯罪は時々の社会にとって不可欠の機能を果たしている」として犯罪の正常性を主張することで、一般的な常識ないし偏見をくつがえす論理を一立てようとしたのでしょうが、私には納得できる筈もないのです。
 ところで、ちょっと嫌気が刺すところでも、原点に返るならば、どう考えてみても、人々が集まって集団や社会を形成するならば、そこに必要なものは、道徳であり、倫理であり、人としての道であろうと思うのです。道徳や倫理を持って、社会の正常性維持すべきであると考えるは、どのような社会においても、なさなければならないと考えるのは、私一人ばかりではないような気がします。
そのような意味では、犯罪の正常性の論拠などあるはずはなく、問題として取り扱うべきことでもないと思うのです。あくまでも、政治、経済、文化や人間の諸活動には、倫理、道徳といった基本的な人生観が必要であり、人として、成長して立派になること、良き家庭を築く事、社会と調和する事等、当たり前のことを、古今東西、どんな人でも目指すに違いないと思えるのです。