2012年7月19日(八段語録1748)

書きつづける意味(3)


 私は、極真会館という舞台を獲得したことは、どんな本を読むよりも、あらゆる人にインタビューするよりも、学業に励むよりも有益なことでした。指導者としてのこの十数年の間でも、人生のあらゆる縮図を学んだし、多くの実験や研究をすることができたのです。一番町の本部での人間関係や手塚グループに所属してからのあらゆる内容は、私の人生で、これぞ世界に例のない、最初にして唯一の研究室だったのです。
 やり方を、今日公表することになるのですが、あらゆるテーマについて、一方的に捲し立てたのです。まさに結論のように話し続けました。そして、私の考えについて、あらゆる原則を、実生活の中で応用してもらったのです。問題を提起しないと、答えが返ってこないのも事実でした。問題提起をしなければ、何も帰ってこないので、敢えて嫌われ役を買って出たのです。
 肯定的な人の中には、自分が私の原則を実践してどうだったかを話してくれる人もいたのです。もちろん、反発して黙り込んでしい、また始まったと感じて席を外す人もいましたが、お構いなしで話し続けたのでした。このような経験を通じて、私は、極真会館という道場で、誰よりも数多くの人生経験を道場生から聞く事ができました。そのような意味では、私の経験等をぶつけることによって、多くの話に耳を傾けてきたと自負するのです。
 私の書いている内容は、当然、学術書ではないのです。豊富な人生の材料を駆使しながらも簡潔な実証宝庫を得たのであり、それをベースに書こうと努力したのです。誓って言うのですが、この内容は、誰かを傷つけようとして書いているのではないのです。じっくりと味わっていただければ、この文章の本質に触れるのではないかと思うのです。
 私の書いている文章は、好結果を収めた処方箋のようなものです。悪いことなど殆ど書き記そうなどとは思わないのです。道場で修業していく上での、好結果だけを記載しようとしているのです。そして、真新しいことなど何も書いてないのです。普通の当たり前に実行されていることを書いているのに過ぎないかもしれないのです。しかし、その事を重要視して投げかけているのです。たとえば、私は一度でも浮気をしたこともないし、妻しか女性として愛したことは無いという事を憚ることなく書いているのです。それが、世の中では、実践できないのです。ここに、当たり前なこととして、私の文章の意味があるのです。