2012年6月25日(八段語録1724)

いじめについて


 我々人間は、集団を好む存在であると同時に、自分が皆に認められること、それも好意を持って認められようとする動物ではないかと思うのです。もし自分の属する集団から完全にソッポを向かれるとするならば、こんな残酷な刑罰はないのです。
 人間関係の密度が濃くなればなるほど、人間の感情は渦巻くのです。学校教育などでは、クラス編成があって、集団の中のいじめが結構話題になります。いじめは、人間同士語り合ってみて、誰かが、理性も好意も感じられなくなった場合に起こるのです。また自分の言いたいことが受け入れられなかったりすることで、仲間からの疎外でも起こります。
 誰もが、弱い人をいじめようとする心は、あるのです。どんな馬鹿者でも、あら探しをしたり、難癖をつけたり、苦情をいったりできるのです。そして大概の場合、いじめる人はそういう人が多いのです。
 それは、人間嫌いが根底にあるのかもしれません。その事を意識することによって、いじめはなくなるのかもしれないのです。集団生活の中であればあるほど、相手の長所を見つけたいものです。そして長所は必ず見つかるのです。人間として賢さを発揮したいものです。多くの人と調和できるとするならば、これほどの宝はないのです。人間として賢い生き方は、人に良きことを与え合う事ができる生き方なのです。
 ある県の中学生が、いじめを苦にして、自宅のマンションから飛び降りたというニュースが入ってきました。いじめで一人の生命を失う事は、大変な悲しみです。もし、誰かが彼を理解することができたら、自殺することは無かったと思うのです。誰かに相談できれば、いくらでも解決策はあったのかもしれないのです。見せかけの頬笑みだけで彼を救う事は出来ないのです。
 教育者は、心に仮面をかぶったりせず、真心を持って、心を使う事が望まれるのです。人間は真心を感じたならば、決して死に至るまで自分を抹殺しようとは思わないのです。学校教育の中で望まれる事は、お互いに親切心を続けることであろうと思うのです。そうすれば,良心のかけらもない人からいじめられようが救いの道はあるのです。必ず他で受け入れられるはずなのです。
 このようないじめは、醜いものです。学校教育で、お互いが尊敬できるように、親しくなる方法を切り開く訓練も必要であると思うのです。初めの書いたように、社会集団の誰からも完全にソッポを向かれるとするならば、こんな残酷なことは無いのです。これがいじめの本質のような気がするのです。