2017年12月28日(八段語録3170)
極真会館手塚グループ 第二章 極真精神の究極
六 世界人類を調和させる「礼」


 夕方に学友と三時間ほど話したのです。
夢と理想を追い求めている私にとってクエスチョンから始まりました。
最初の話は何ら方向性の無い話なのです。
当たり前に、会話は続かないのです。
現実の自分の事情だけでは、楽しい会話は成立しません。
お互いに尊敬することが、大事であると思う事を願うだけでした。
要求だけでは、どうしようもないという事です。

現実の要求を切り返して、会話を成立させました。
大人として、どれだけ夢を追っているかという事です。
目先の「数勘定」では、夢が逃げてしまいます。
ましてや、人も逃げます。

夢を追いかけるということは、困難と苦難が二つまとめて圧し掛かってきます。
夢を追うという事は、身悶えして、生命を削って日々を興奮しながら歩む、消耗戦なのです。
しかしながら、夢という対象から、結果的に力を得るという事になるのです。
取り組むための力が、湧き上がるのも夢からの限りない励ましからなのです。

そして、その夢の実現のために、当たり前に生命を削り続けるのです。
最初は、夢の形が表れてこないのです。五里霧中ということです。
暗中模索している中で、手掛かりを僅かに掴むという事になります。
それで、初めて入り口に立てるという事です。
そこから夢を継続させて必至にもがくのです。

 私の夢は、遥か彼方にあるのです。もう五十年も追いかけてきました。
実に地球の岩盤ぶち抜く覚悟での対応なのです。
大げさに言うならば、人類が生き残る道を提示するのです。会長からの受け売りですが。
誰にも迷惑をかけることなく、お互い共栄することができる道の模索なのです。

その入り口を、手塚会長と共に、極真会館手塚グループとしたのです。
この切り口は、あくまでも水が氷になる一点であると思っているのです。
政治も経済も文化も、何もかも繋がるのではないかと思うほど宇宙まで飛躍しているのです。
その為に、今何が必要なのかという事での対応なのです。

確かに会長の後継を引き継ぎましたが、会長の夢は、現状ではなく宇宙を目指すようです。
それだけに、夢の途上で喘いでいる自分の姿があるのです。
確かに、形を求めることも必要なのですが、その形にも内容が問われるわけです。
世界に発信できるのは、一体何であるかという事を発想すると、武士道精神という事なのです。

この中で、世界が共有できるのは、「礼」で纏まっていけるという事です。
内容よりも、外観から入るという事で、調和を保とうとするのです。
「礼」はお互いを尊重するのです。
人類に対する精神的支柱を「礼」に置くことができたら、変な争いは無くなるのです。
身内だけでなく他人に対してもという事なのです。

 その「礼」の深い内容の一端として、検討することがあります。
それは、人間の体そのものです。
体のすべての部分は、完全な秩序を保ち、それだけでなく、外部の環境ともマッチしているのです。
そして、体は、精神がコントロールしているのです。
最近の学説であると、脳も臓器の一部だというのです。

そうすると、あらゆる臓器を包み込む精神があるという事です。
その精神に、「礼」をぶち込むわけです。
精神は、臓器も人体に対する周りの環境も調和させてしまいます。
この「礼」が当たり前に、人を大切にできるツールであるという発想です。

道場では、この「礼」が不可欠なのです。
道場では、誰に対して、どのように頭を下げなければならないかを説きます。
また、座る作法から、歩き方まで指導するのです。
先輩は、細心の注意を払って、教えるのです。

この「礼」の形は形式な事であって、その上での本質を教えるわけです。
その「礼」の本質は、聖書なり論語なりを読むと、心に入り込んでくるのです。
つまり、他人に対する愛情の配慮という事になるのです。
この「礼」は衣食住の生活を超えた所にあるのです。

 まさに、精神と肉体が共鳴しあう事のできるツールになるのです。
人格の成長にもなります。
また、お互いを尊敬して大切にするという心も成長させるのです。
さらに、このグループが主張しているように、家族間の連帯にも繋がります。

この「礼」こそが、私達が抱く「名誉」なことになるのです。
わが名を守ることと、人格を築き上げる入り口になるという事です。
お互いが「礼」によって、自己評価は高まるのです。
この「礼」によって、人の最も敏感な部分を愛情でもって刺激しあうという事です。

手塚グループにおいて、知識や富は当たり前に追い求めます。
それだけでは満足することができない夢があるのです。
それが、名誉につながり、自尊心が生まれてくるというものです。
その為に、どのような境遇に立っても、夢をあきらめないという気持ちになるのです。

このような「礼」を備えて、十数年の間、世界を巡回しているのです。
もちろん、極真空手の技術的側面に対しても指導します。
それ以上に、人として価値のある「礼節」を学ぶという事を指し示すのです。
この「礼」健全な精神のみに宿るという事を確信しているのです。