2017年12月23日(八段語録3166)
極真会館手塚グループ 第二章 極真精神の究極
二 求めるべき個性


 突然、夜遅く責任者からの連絡がありました。
抜き差しならぬ事なので、手塚文子代表に連絡を取って対応です。
責任者は実直な方なので、動揺も隠せない様子でした。
しかし、周りのスタッフは冷静沈着でした。

現場スタッフと連絡していくうちに、スタッフは、城主を守る家臣団のように素早い対応でした。
日頃の信頼が滲みだしている人間模様でした。
久しぶりに師弟関係の美しさを感じるのです。
それと同時に人は石垣、人は城という武田信玄の言葉を思い出してしましました。

もし、半世紀に渡って極真精神を磨いてきた人が、人の成功を羨んで嫉妬するとするならば、何の為の極真の修行であったかという事を問いたくなってしまします。
弟子の成功を喜んで、一緒に輪になって初めて、指導者として報われるというものです。
それが、師としてのあるべき姿であると思うのです。

この道場から多くの人材が輩出されました。
その多くの弟子は、もうすでに私を遥か超えているのです。
そして、現在私自身が指導を受けているという事にもなっているのです。
これが、「老いては子に従え」という事でしょう。
多くの弟子のサポートがあるので、器を広げていけるというものです。

 さて、極真空手における人生観は、家族を大切にするという目標です。
人間として、極真会館手塚グループは家族というジャンルに向かって求道の道を追及しているのです。
それ故に、各々の立場である各位を大切にして、尊重するという姿勢を持つのです。
不完全であるがゆえに、極真空手を追及すし、修練するという姿勢を保つのです。

空手という修行の道において、稽古は大切になります。
この稽古という手段は、二時間近くの間逃げ隠れもできないのです。
外すことのできないレールの上を全力疾走することになるのです。
そこで求めるのは、より強く逞しく完全でありたい理想的な自分の姿なのです。

その修行を一年ではなく二年でもなく、私の場合五十年近く歩んでいるのです。
そして、本来の自分の姿を求めようと成長することに身もだえしているのです。
そのような自分探しの道を、人生をかけて必要以上に追い求めていることになります。
それが、手塚グループであり健全な人間の姿を求めると主張をするのです。

実に極端であると思うですが、今でもこの極端な生き方が身に染みているのです。
その健全な姿勢は、相手と向き合うという事なのです。
例えば、道場生と向き合うという事に対しても真剣なのです。
それも、原点は、妻との一対一の対話からエネルギーが発せられるのです。

 ところで、そのために、肉体を研磨して、逞しい精神の確立を目指す姿勢はこの道で磨かれるのです。
というのも、人との対話する中で、核エネルギー以上のエネルギーが湧き出すのです。
そのためには、対話を続けることのできる精神力を身に着けようとするわけです。
全ては、この対話に帰着させるわけです。

例え道場生が、極真の修行を行っており、極真の継承者であるような事は、何にもならないのです。
自分を正当化させようとするアクセサリーだけにしかならないのです。
それよりも、誰とでも対話を続けていくことができる精神力が願われるわけです。
対話を続ける中で、愛情あふれる雰囲気を醸し出すことが出来るかという事です。

極真空手が強いか弱いかという事は大切ですが、それ以上の内容を求めます。
チャンピオンになって有名になるという事など二の次三の次という事です。
それ以上に、愛情を持って、対話できるエネルギーを身に着けて、力強く対応できるかという事です。
この発想は、手塚会長が主張するところで、非常に説得力を持っているのです。

稽古は、この粘り強い対話力を磨くといって過言ではないのです。
この対話力が真摯な成果を生むのです。
この発想は、日々の活動の訴えてくれたのも会長でした。
それを、真剣に家族というテーマで成就しようとするのが、私の責任であると思うのです。

 結論として、求めるべき個性は、光り輝く魂の対話を通じて発散されるエネルギーの母体なのです。
その原点は、手塚会長との対話であったのであり、その影響で家族に影響を齎したのです。
それは、どんな境地に立っても優先するという営みなのです。
その為に、対話を重ねるためにも強くならなければ、ならないというのは必要なのです。

強くならなければ、対話を継続するエネルギーは生まれてこないのです。
対話力を継続させるという事は、ねばり強い極真精神で培われるというものです。
実際に稽古をしている道場生には、かなり強い説得力を持っているのです。
ここに、家族を営む多くの人の希望が隠されているのです。
それだけに、人間本来の個性は、極真の修行を通じて見出せるという事です。
修行者としての私たちは、決して恥ずかしい道を踏んではいけないのです。
誰もが敬う力は、大いなる「対話力」なのです。
それが、本来の自分探しであり、納得できる究める道であるのです。

今回のある責任者の事件は、より組織の結束をもたらすであろうという事です。
この件を通じて、更なる対話が生まれてくるのです。
それは、誰かを否定するという事ではなく、親しみを抱いて救いの御手を差し伸べるという事でいいのです。
心の貧しさは致命傷です。
それだけに、寛容な気持ちを抱きながら、前を向いて進んでいくことです。