2017年12月18日(八段語録3162)
極真会館手塚グループ 五 愛情力


今年の六月に、国道45号線沿いに手塚グループの看板を掛けました。
昔の学友がビルを一棟購入し、看板が空いているという事で格安で設置しました。
縦8メートル横3メートルの巨大な看板の出現という事です。
看板に選択した画像が、最近の私の「空手の形」なのです。
「新ゴジラ」のようです。

看板の話題で、一番町に道場があった二十年前の弟子にも、街で声を掛けてきます。
それを良いことに、「また修行を始めましょう」と話しかけるのです。
もうすでに、二十数年前ですので、声を掛けてくれた弟子を思い出すのに時間がかかります。
それでも、思い出した時には、その時の事が、手に取るように感じられるから不思議です。

看板を掛けてから半年が過ぎましたが、地域での知名度が急上昇です。
時間があれば、地域の活動を行っていますので、頼られることも増えてきます。
特に、賛助金のお願いや、寄付が多いのです。
どちらも、財布の紐が開きっぱなしになっています。

看板設置を格安で頼めたのも持つものは、良き友という事でしょう。
お互い助け合い励ますことにもなります。
再び故郷に帰ってきて、仙台を拠点にしてから、もうすでに二十五年の歳月が流れました。
それだけに、この街を舐めるように愛情を注いているという事です。

 さて、看板の設置で、意識させられることは、決して悪いことはできないという事です。
この街で、交通違反をして警察に捕まるわけにもいかないのです。
そのような日々の生活の管理をしっかりしながら毎日送るという事ですから、私自身の自戒になります。
すべてに対して、人としての「標本を示す」という事を看板として掛けているようです。

看板を掛けたからと言って、選挙に出るとかという事は頭の片隅にもないのです。
それより、私が応援する仙台市会議員渡辺博先生の手助けになれば、それで十分なのです。
私は極真空手の道だけを究めようとしていますが、先生は議員の道を市民の為に究めています。
それは、一つの道を究めるという点で、共通なのです。

また、私よりも更に優れていることは、市民の為に心血を注いでいるという事です。
誰かに頼まれごとでもあったならば、全てに先んじて対応されるのです。
街の重要な案件に関しては、必ず手掛けていち早く協議するのです。
誰も、議員の真似をしようとも、できないように感じてしまうのも私ばかりではないようです。

市民の為に身を粉にする姿勢は、議員になったからと言って、誰でもできるものではないのです。
別に何の利害関係もありませんが、年齢も私よりも二歳、上ですから人生の先輩として尊敬しています。
それだけに、私の関係する人たちに対しては、紹介したくなるというものです。
これからも、年数を重ねて、議員生活をして頂きたいという思いになります。

 ところで、人は情的な衝動を愛情として受け止めて喜びたいものです。
喜ぼうとする衝動は抑制などできるものではないのです。
日々の苦労は、一瞬の喜びの為に費やしているといっても過言でないのです。
それは、抑えがたい衝動という事です。

不朽の名作でも、あらゆる芸術でも表現されるのは、衝動の愛情の形でしょうか。
愛情は生命よりも強いとされます。何故ならば、生命を誰かの為に愛情に捧げる文学が多いのです。
抑えがたい愛情が情的力となって表現されるのです。
愛情は、生活の中で、自らの人格の核心であり、人間の知情意の諸機能を成立させる基盤という事でしょう。

私達のグループは、家族を大切にしています。
それだけに、この家族の愛情によって人生は楽しむことができると思っているのです。
人間が家族としてお互いに関係を結ぶならば、どんな危害も加えるとなると躊躇するはずです。
その為にも、極真空手を手段として人類一家族を目指そうとするわけです。

私自身そのようなことは、誰にも分かることであると思って世間に出たものです。
私が家族の中で、健やかに育ったという事が当たり前のように思っていたのです。
それが、世間に出てみれば、家族の愛情を受けてない人も多いという事が理解できたのです。
また、心が屈曲している人が多くいたのです。

 そのようなことが分かってきたので、極真会館手塚グループで登山口として家族という階段を登ろうと思ったのです。
そして、家族を楽しむという世界を広げるというミッションに出かけたのです。
もちろん、その中に、喜怒哀楽もあり、あらゆる衝撃がったのです。
それもこれもひっくるめて、家族を楽しむという事を広げようとするのです。

家族として言う事、見ること、感じること、全ては共有できるのです。
そうすれは、飛躍するかも知れませんが、誰もが認知することができて疑わない世界の第一歩になると思うのです。
そうすれば、私が認知して、知ることができるという事が、平和の礎という事でしょう。
それは、寒ければ寒いと感じて、労わってやることができるというものです。

遠く離れたヨーロッパの道場生に心を思いやってみれば、細胞で事情を感じることができるというものです。
そして、その道場生の手を掴むことができるというものです。
多くの家族の事を感じる感性が、家族という繋がりのように思うのです。
このような感覚を掴むために、人としての体験があるのだと思えるのです。

家族という単位をしっかり経験すると、あらゆる愛情の感性が磨かれます。
感じる度数、その量が愛情力になるのだと思えるのです。
そんなつながりを求めて、人生に対して愛情力を高めたいと思っているのです。
極真会館として世界共通の段位があります。
そのような修行の階段を通じて、思いやる愛情力を磨きたいものです。