2017年12月17日(八段語録3161)
極真会館手塚グループ 四 精神の性質のように


 中古品市場で、マイクロソフトサーフェイスブックが格安で出品されていました。
目聡く受注に成功しました。
出品者から着払いで届きました。
サーフェイスブックの備品のペンは入っていませんでしたが、それでも価格からして贅沢は言えません。

ティスプレイが13,5インチの大きさで、画素数も多く設計図もキャドを使って書けるようです。
キーボードも本格的で、チタン合金を使って丈夫に設計されているのです。
指の圧力が強いタッチでも、十分に耐久性があるという事です。
ディスプレイを見ながら創造性を発揮して表現できるというものです。

今後、インターネットを通じて、メッセージを送ることに不自由はないのです。
現場の意見を十分に吸い上げて、グループの発展に寄与していきたいのです。
というのも、責任は大きく成りましたが、現場との関りは少なくなるのです。
全世界を巡回しようとしても、空間と時間によって束縛されます。

それだけに時空を超えて、メッセージを日々出し続けるという事は、願われることです。
それも、そのメッセージが道場生の心に届かなければ意味をなさないのです。
メーセージは、言葉だけではなく、修行者としての心が投入されなければならないでしょう。
それ故に、私自身の心の高まりを維持して行くべきであると心得るのです。

 さて、極真会館手塚グループが世界に広がっていっているといっても、起点はあるのです。
手塚会長の所在は千葉県流山市でした。
このグループの中心としての聖地であり、継承する会長が誰になろうとも変わらないのです。
今回、会長に就任した私の場合、千葉に引っ越すことは、現状からすれば無理というものです。

それだけに、伝統は継承するものの、私の活動基地は、仙台なのです。
そして、生活の舞台として故郷があり、家庭があるのです。
家族を大切にする手塚グループの一員としては、グループの為の仕事場を別に置いているのです。
そうすることによって、家族にもグループにも百パーセント投入するという意思表示なのです。

環境を整備することによって、無限に世界の極真手塚グループに投入しようとするのです。
そのことによって、あらゆる課題を解決しようとするわけです。
別に意識せずとも、誰もが心を持っているのです。
その心は、何処にでも行けるし、誰とでも会うことができるのです。

それも目に見えるわけではないので、心を研ぎ澄ませて世界を抱くという事になります。
私は手塚会長と世界を回ってきたのです。
それだけに、手に取るように各国の道場生と気持ちを合わせることができるというものです。
今となっては時間と空間を突き抜けて、世界の家族と連携することができるというものです。

 ところで、現実の通信手段も便利になりました。
FBのメッセンジャーでは、世界中無料で会話ができるのです。
特に、責任を持っている指導者が全体を把握する体制で組織化されているのです。
それだけに、極真という舞台の中心で思い切り振舞えることができるというものです。

それ故に、私自身全く支障を感じることはないのです。
便利な体制が整ってきているのです。
これも、手塚会長の開拓の土台があったからという事です。
家族という思想のもとに愛情を投入した歴史がある為に、スムーズに動くのです。

このように便利な体制が、もうすでに出来上がっているのです。
この大きな極真会館手塚グループを包む風呂敷で包んでも余りあるという事です。
このグループには、心と心がつながる関係があるのです。
そして、確かに触れたりできないにしても、ただ心で感じることができるというものです。

このような原型がもうすでにできているという事だけでも、偉大な事です。
ただ理想に向かって、永遠に貫く覚悟があれば良いだけです。
永遠を時間で捉えることはできませんが、永遠の中に時間があるはずです。
それだけに、日々の歩みは、時間を経過して永遠の理想に繋がると確信するのです。

 結論として、精神の性質を最大限に活用するならば、大きく発展するはずです。
それだけに、私自身、日々のグループの活動の中で、誰にでも入っていく覚悟なのです。
このような誰にでも入っていく生活をするならば、必ず活火山のように噴煙を高らかに吹き上げることもできるというものです。
私自身、この精神の性質を確信するという事を肝に銘じるのです。

精神の性質を絶対に必要とするのが、責任者としての意識でしょう。
世界の道場生と一緒に極真の道を究めるという事に繋がるのです。
位置と立場を奪い合うとするならば、醜い争いが生まれてきます。
それだけに、精神を重要視して、お互いに思いやるとするならば、何の戦いはないのです。

私が会長の願いを引き継ぐ立場に立ったのは、立場を利用するという事ではないのです。
あくまでも、精神の性質を最大限に活用すべく、実践して表すことなのです。
それだけに、別に目立たなくても言い訳です。
あくまでも、道場生に寄り添うという気持ちでいるという事です。

それだけに、精神の性質のように、「見えない主人」になるという覚悟なのです。
決して目立たなくても良いという事です。
存在感がなければ、歩き回るにしても身軽というものです。
そして、道場生の心の倉庫の中に、安全にしまってもらおうと思うのです。