2017年12月7日(八段語録3156)
極真会館手塚グループ
  一 人格の個性と尊厳

私の心はというならば、当たり前に誰も見ることは出来ないということでしょう。
それでも、私自身の個性体から少なからず現れるのです。
つまり、表現されるであろう心の現れだけは人の目に晒されるということです。
私自身、心がどうであったかということは、想いの中で振り返ることが出来るのです。
また、今の時代的恩恵で,人間何人といえども尊重されるのです。
日本では、身分制度もありません。
誰もが、社会的に平等に取り扱われているのです。
そして、誰もが、人を尊敬するということを自然に学ぶのです。
そのような理由から、一人一人は大切にされるべきであり、個性は認めらるのです。
相撲協会で日馬富士が取った暴力問題は、どんな事情があれ、許されないのです。
また、妻を裏切って不倫するということも、社会的制裁を受けるに至っているのです。
当然、夫を裏切って家族を捨てるということに関しても世間の目は厳しいのです。
女性の国会議員であっても、「このハゲ」は言葉の暴力ともいうべき内容なのです。
もちろん、法律では罰を問えない事もあるのですが、世間は許さないのです。
不倫も男の甲斐性という事も、昔は許されても、今はとんでもないことになっているのです。
別に法律で、刑に服するということでは無いのですが、社会的制裁は大きいのです。
さて、一連の社会的動向は、誰もが尊重されて無視することが出来ないことの現れなのです。
どんな形であれ、人格を蹂躙してはならない時代に突入しているのです。
より本来的な人格の尊重という事が、このような形に現れているのです。
このような価値観は、手塚会長より指導を受けていたのでした。
極真会館での稽古も昔は、暴力的な事も日常茶飯事でした。
もちろん、打撃を中心とする空手だけに境界線は引けなかったのです。
私自身、散々可愛がられましたし、後輩を可愛がったものです。
総本部の道場では、マスメデアの影響もあって新しい入門性が波のように押しかけていました。
その交通整理が、私ということでもありました。
新入門生の為のスケジュールを取り、補強運動で相当イジメたような思い出があります。
地下のトレーニング室で限界まで挑戦してもらったのです。
一週間もしないうちに、半数以上はやめて行きました。
また、補強運動を終えて、一般の稽古に入る新入生に対して、組手の稽古の担当でした。
経験のない打撃ですので、道場の端にのたうち回る姿がありました。
これも、私自身の悔い改めと反省をすることで、ブログに表現しているのです。
その仕置のために、極真空手をやめてしまった道場生に対しては、すまなかったと謝るのです。
また、柔道出身者や他流派空手道の高段者に対しては、厳しい稽古を好んでしました。
これも、私の若かりし頃の過ちということでしょう。
今の時代では、決して許されないことで、裁判沙汰になってもおかしくないことでした。
ところで、このような過去を総反省して、今の立場に立っているのです。
ですから、失敗の教訓を生かすという事に徹している自分があるという事です。
暴力事件に発展してもおかしくない稽古を総本部でしたものだと思うのです。
若い時だけに許されるということではなく、人権に対して世間は未成熟だったということです。
今では、オフィスの中でもタバコを吸う事が出来なくなくりました。
宴会の場でも、酒を嗜まない若者が急増していて、お酌もはばかるのです。
より人権を重んじて、お互い他人の行動に対して尊重する社会になっているのです。
これから益々人を大切にするという理念は、大切になってくるということです。
手前味噌ですが、私は酒も飲まなければ、タバコも飲むことはないのです。
これは、極真空手を修行して、決して身を崩してはならないという戒めからでした。
酒を飲んで感情が高ぶれば、実戦空手だけに暴力事件起こしかねないと思ったからです。
この縛は、六十数年の人生を歩んで、間違いはなかったと胸を撫で下ろしているのです。
また、言葉の暴力に対しても、結構気を使いました。
「口から入るものは人を汚すことはない、しかし口から出るもので人を汚す」とあるように、
暴言を吐くことのないように務めたものです。
その結果、社会的制裁を受けることもなく、まして、刑に服することも無かったのです。
結論として、どれだけ人権を重んじて人に対応する事ができるかという姿勢なのです。
自分が尊敬されるということもあるでしょう。
しかし、それ以上に多くの人を尊敬できる人格を身につけなければならないのです。
それが、自分自身に課せられた課題であると心に決めているのです。
もちろん、妻を裏切ることは言語道断なのことです。
不倫はもとより、商業目的であっても男女の関係は御法度という発想に至るのです。
多情多感な私だけに、どんな誘惑が待ち受けているか分からないのです。
いまだ、極真の修行僧という自覚をする昨今です。
これほどまでに、人を尊敬する時代に突入したということです。
人権というものは、世界に一つしかない個性を衛という事です。
このような発想は、宝物のようにも思うのです。
一般社会でも、人権に関して物凄く敏感になっているのです。
極真空手の指導者として、唯一無二の存在として道場性を扱うのです。
この心掛けが、極真空手を極める武道家として大切なことと心得るのです。
その姿勢を貫いて胃こそ、極真会館手塚グループの目的が果たせるというものです。
今その境地に向かって、前進しようと、さらなる決意をするのでした。