2017年12月2日(八段語録3153)
極真会館手塚グループ
  二 極真空手道の目標

畑にある山小屋の二階に、ブラインドカーテンを取り付けました。
部屋のインテリアとして、ブラウン色のカーテンで大きな窓をカバーしました。
実に落ち着くし、アットホームな雰囲気になります。
また、カーテンがある為に、断熱の効果と日差しを遮るという効果もあるわけです。
この場所が、今年の三月から日本国内と世界各国に対する司令塔なのです。
部屋の中央には、私の等身大の修行断食10日間の写真を置いているのです。
写真を置く理由は、修行の道を今も歩んでいるという自覚からなのです。
実に私の目標が、修行者として生涯を終えようとする心意気なのです。
極真空手の修行は、決して生活の安住を求めているのではないのです。
多くの道場生の見本として、何をどれだけできるかということの自問自答なのです。
身分制度があった昔とは違って、道場生が先輩を乗り越えていくことを期待するのです。
この極真精神はお互いに切磋琢磨して世界に影響を与えると本気で思っている訳です。
また、カーテン以外に駐車場にセンサー付きの街灯を取り付けました。
狸もキツネもさらには猪や熊も山から降りて来る地域なので用心の為に設置です。
畑で猪や熊と格闘することのないように追い払う目的なのです。
自然に恵まれた山荘で日々世界に目を向けた過ごすという恵まれた環境なのです。
さて、私にとって極真空手道は、四十五年の年月を自己修行へと駆り立ててくれました。
他の社会人とは一線を画して、仕事が中心となる生活ではなかったのです。
まず初めに、自分自身を見つめるという作業から始めることが出来ました。
安易に流れやすい日々を、立ち止まるというよりは、気合いを入れていくことが出来たのです。
人生に対しては、多くの人は当たり前に様々な価値観を持って取り組むことが出来ます。
マスコミの影響、人間関係での遠慮、地位や名誉によって妨げられたり、環境が大きく影響してきます。
それだけでなく、人を恨んだりしたものなら害悪が取り付いてしまいます。
そのような外的なものをもろともせずに、自分の道を歩むという信念が空手道にはあったのです。
それも、人の顔色を伺うということではなく、良心に従った人生をエンジョイするのです。
人生の到着点に修行を通じて至るという選択は、気持ちの満足につながりました。
経済的活動を主眼点に置いてないだけに、質素倹約の日々になることは目に見えていました。
だからと言って、心の貧しさには、繋がらなかったのです。
平たくいうならば、自分の好きなことを貫いた人生を豊かに過ごすことになったのです。
それは取りも直さず、人生において本質的に一貫性のある生き様になりました。
それも、年齢を重ねることで、段階的に高めていくことが出来たのです。
私の場合、高齢になっている訳ですので、最終段階に至っているということでしょう。
そのような気持ちで、取り組めたという事は、人生に恵まれたとしか言いようがないのです。
そのようなわけで、極真空手は、今までの人生を大切にすると同時に道を示すものになっているのです。
というのも、大山総裁や手塚会長に何かしら目印になる道標を示してもらったのです。
その道は、充実していたし、決して間違っていないと確信できたのです。
それだけでなく、将来到達する道として心に灯台の灯火になったのです。
テレビのチャンネルを回すと勝手な価値観で放送されているのです。
また多くの人は、そのフェイクニュースを本当のように錯覚するのです。
結局、信念のない人生を過ごしてきた人は、自分自身で人生を整理できなくなっているのです。
それは、まさに洗脳されているとしか言いようがないわけです。
自分自身が僅かばかりしか感じられないニュースで、錯覚の中で流される人生を見つめるわけです。
特に、年末になると、今年の十大ニュースとかで、勝手にはやし立てていのです。
自分自身がしっかりと根付かせた人生を見つめて世間を洞察するということが出来ないのです。
結局、マスコミの餌食になって、実体験と違った見識を持つに至るのです。
何かしら、自分で感じてた事を大切にして、人生を意識するという人生から遊離するのです。
そのような意味では、極真空手を修行するという事は、自分自身を世の中に根付かせするのです。
将来到達する人生に対して、しっかりとして考えを持つという事です。
それが、実戦空手である極真精神の真髄というものです。
結論として、この道の目標は、自分でしっかりと発送できる能力を極真空手で身につけるのです。
周りに惑わされる事なく、自分の眼でみて、四肢五体で体験した事を大切にするのです。
本質をしっかり見つける事のできる能力を結実させるわけです。
その一貫した人生の見つめ方に対する意識を持つのです。
もちろん、周囲の環境にも影響されるのです。
それでも、自分自身の信念を貫いて、はっきりした立場に立つのです。
それは、極真空手で修行した事で、同一になるという事を意味していないのです。
千差万別、違った意見と発想は当然あるべきです。
極真空手の修行をするという事は、実に実際のこの世界に身を置いて確かな発想をする事を意味するのです。
環境からの影響を最大限少なくして、しっかり思考した人生を歩むという事です。
最終判断を、自分自身の価値観で再定立するという事です。
長い物に巻かれるという発想から、責任を持って意見するというところに至るのです。
これが、極真空手を修行する目標なのです。
古い自分に終止符を打ち、自分の能力で持って創造していくのです。
このような実践の極真空手を修行する人生の目標を立てるという生き方なのです。