2017年11月29日(八段語録3151)
道場生へ
(12)

日曜日、宮城県栗原市に本部を置く北峰会の東北大会に二十数名の道場生が参加しました。
晴天にめぐまれて、初冬にも関わらず、暖かな小春日和の大会日和でした。
私はというならば、農地である根白石の山小屋から朝八時に出発しました。
宮床を通る街道で「殿利息でござる」の映画の宿場町吉岡を通って瀬峰町に向かったのです。
宿場町の吉岡は伊達藩の所領で、仙台の北の方に位置しています。
藩からの苦役を何とかするということで、親子二代に渡って取り組んだ藩にお金を貸すという事業を思いついて実行したのです。
映画では、その宿場町の領民が一致団結していく様子を描いていたのです。
その精神は、犠牲を良しとして全財産を捧げていくという内容でした。
映画の感動を呼び起こしながら、晴れ渡った奥州路を愛車プリウスで会場に向かったのです。
北峰会の操会長は、手塚会長の信頼を受けておられた方です。
息子さんが、手塚道場で修行をされ、有段者になって、故郷に錦を飾ったのでした。
そんな関係から、生前会長が七段を受賞するということを決めていたのでした。
操会長は、平成一年に交通事故で身体に障害を持たれていたのです。
それでも、逆境を諸共せずに、実戦空手の指導者として不死鳥のように蘇ったのです。
五体満足な私達でも、成すことのできない青少年の教育に取り組んで来られたのです。
それは、人格といい、武道精神といい、多くの道場生に慕われているです。
さて、話は変わりますが、極真空手の修行に入ったならば、道場生は振り向くことなく、前進してほしいということです。
今回も、北峰会の大会でしっかり戦っていました。
その業績は、個人においても全体においても、自信になりますから有難いことです。
それだからといって、そこで立ち止まって鼻高になっては修行にはならないのです。
大会も修練の場であり、対戦してくださった選手に敬意を払って前進すべきです。
日々の稽古でも、大会においても、必ず乗り越えなければならない課題にぶつかります。
もちろん、強さが一番目に付きますが、それ以上に人間性をどれだけ磨けるかということです。
この人間性を磨くという修練は、どれだけ社会に必要とされる人材になるかということです。
当然、先輩として後輩に必要な人材に慣れるように努力することはいうまでもありません。
自己主張をして、全体の行事を侵害するようでは話になりません。
押忍の精神で、全体を把握して、自分の立つ位置をしっかり認識すべきです。
全体を優先して、個人を生かすという精神は、かなり難しい境地を通ります。
必ずいく道において、壁が立ち塞がってしまうし、自己主張が始まります。
逃げようともしますし、傲慢にもなるのです。
だから敢えて私は、道場生に対して振り向くことなく前進することを願うのです。
決して無駄な人生を過ごすことのないように、道場生には願うばかりです。
ところで、空手修行が疲れたら、黙って静かに休めば良いのです。
そして、時が来たらまた一歩進める事ができるというものです。
自分で道場に反逆したり、自己中心にも旗揚げしたりするとしたら多くの人に迷惑をかけるのです。
もちろん、直接指導した先生の心の痛みはいかばかりかと言うことです。
私自身も、総本部での稽古で打ちのめされた時は、リックと寝袋を持って全国を行脚したものです。
傷が癒えた時に、総本部に立ち戻り稽古を続けたのです。
それでも、難しいと判断した時には、信頼する師範を頼ったものです。
それが、北海道の高木師範であったことは、今でも懐かしく思うのです。
私の修行時代は、全国何処の道場に通っても許された時代でした。
出稽古も何処にでもいくことが出来たのです。
そのような意味では、継続することの環境が全国にあったのです。
それ故に、北海道での修行が八年に及んだのでした。
結局、継続するということが、今になっては宝ということです。
継続したが故に、苦しいこと、楽しいことが今となっては繋がっているのです。
一つの道において、一本道として時系列に思い浮かべることができるのです。
その事が、家族にも道場にも、そして地域社会にも反映させる事が出来たのです。
結果的に、継続することを止めるとするならば、情熱の瞳が曇ってしまうのです。
明日の日は、誰も見る事が出来ないのです。
それだけに、止まったり戻ったりすることなく、前進あるのみということです。
その標本を指導者として示し続けて来ているということは、幸せなことです。
北峰会の操会長も、不慮の事故に合いながら、今でも指導者として継続しています。
決して戻ることなく前進して歩み続けているのです。
独り言ですが、私の才能というならば、一つの道を継続するということです。
このことに関しては、振り返ると継続に関しては天才的なのです。
人を蹴落とすということはしないのです。
自分が信じた道を、自分自身蹴落とされないように努力するのです。
そして、心がいつも充実するように一生懸命励むわけです。
それが、最高の生き方であると確信するのです。
一つの道を極めようとするならば、最高の歓喜で生きるように準備されているのです。
人は、一つの道を極めると感動の渦に巻き込まれるように仕組まれているのです。
人生は短いのです。
決してよそ見したり、脇道に迷い込んだりすることなく、正道を極めましょう。