2017年11月23日(八段語録3149)
道場生へ(10)
年齢を重ねるということは、身体も衰えていくということのようです。
寒さがみにしみるようになっているのです。
審査会の次の日は、うっすら山々が薄化粧です。
それだけに、身体の動きも鈍ってしまうのです。
その現れが、足や手の動きです。
ヒートテックの下着を身につけてみても、膝下から足の指先まで冷えます。
また、指先がかじかんで動きが制限思うようにならないのです。
少年時代は、半ズボン半袖のシャツでもなんでも無かったのにと思い返してしまいます。
年齢は勝てないと思って、アマゾン通販から電気毛布を購入しました。
幅広の長さが百四十センチで特大の毛布を求めました。
早速、ベッドに敷いて、全身を覆うようにしました。
実に暖かく熟睡できました。身体が暖かく寝つきも良かったのです。
体温を冷やすことは、健康にも良くないということでした。
冬から春先まで、寒さは続きますから、電気毛布は離せそうもないです。
このようなことは、今まで誰かと話すことも表現することもなかったことでした。
それだけに、年齢を重ねてきたという証ということと納得しています。
さて、このように身体を暖めなさいという指示は妻からの発信なのです。
妻に私の健康のことを、気を付けてもらい何かと面倒見てもらっているのです。
年齢を重ねるに従って、妻からの助言が身に染みるようになっています。
夫婦とは、こんなにも暖かく心を包んでくれるのだという実感があるのです。
もちろん、私も妻のことを気遣ったり、話を良く聞いたりします。
子育てもそれなりに終盤を迎えているのですから残るのは夫婦ということでしょう。
武道精神の賜物でしょうか、夫婦の絆を中心ポイントに置いているのです。
一度夫婦になったからには、生涯夫婦を貫くという精神になっているのです。
その夫婦の愛情は、何もしなければ冷えてしまいます。
それだけに、愛情の光と栄養を注ぎ続けようとする毎日です。
もし妻に一週間も食物を与えないとするならば、罪悪感が日増しに大きくなるはずです。
それ以上大切な愛情を一週間も注がなければ、それ以上ということでしょう。
それだけに、愛情を注ぐということを、生命視しているということです。
その愛情のギブエンドテイクで、理想が生まれるように思っているのです。
心が、燃えなければ、意欲も湧かないということでしょう。
夫婦としての生命が連結さるが故に理想も結合され結実していくということでしょう。
ところで、愛情溢れる夫婦関係を基軸にするならば、家族は満足できるはずです。
子供達の成長は、さまざまな障害と事件が付き物です。
何事もなく子育てがうまくいくということは、あり得ないという話です。
私の家族でも、誰にも語ることができないような事例もありました。
それだからといって、家族として逃げるわけには行かないのです。
私達夫婦が良き縁によって、出会って子供達にも恵まれたのです。
もう息子は、二十八歳にもなります。
それに引き続いて、長女は二十七歳、次女は二十六歳になるのです。
子育ての終盤に入ったとしても、婚活もあり、孫育てもあるのです。
長男はすんなりと婚活ができました。
長女はというならば、婚活に何度も失敗を重ねてしまったのです。
今回はと願いながら、今も親として婚活中なのです。
それでも、跡取りの、長男家庭がしっかり収まってくれたので一安心ということです。
孫の士紀雅や乙燈呂はとても可愛いのです。
グランドファザーとして心を奪われてしまします。
それだけに、年齢を重ねながら健康で過ごしたいという気持ちになるということです。
結論として、どのようにしてこの世に生まれたかということも検証しなければなりません。
私の生命の誕生は、私の両親が、恋をして愛に行き愛によって家族を守ってくれたのです。
そして、私の人生を灯台の灯りのように照らしてくれたのです。
それによって、夢や理想が持てたのであり、生き甲斐ある人生も歩めたのです。
それ故に、家族に愛情が満たされないなら、何の希望も夢も抱けなかったでしょう。
親父は、私に語ることは無かったにせよ、愛情の限りをかけて尽くしてくれたのです。
そして、私の生命を見守って育てて他界したのです。
それは。私の心に永遠に記憶されている愛情物語なのです。
それ故に、私の生まれた環境も愛情に満たされていたのです。
それは、私の誕生そのものが、愛情と親の理想が託されていたということです。
それ故に、両親の夫婦としての愛情の連結が私であるという自覚をするのです。
今でも、家族として過ごした日々は忘れることはできないのです。
私自身、両親の愛情と理想が生命として現れたということの確信に至るのです。
両親が私を見ている時は、もう一人の両親の姿を見ていたに違いないのです。
第二の両親を子である私自身に見ていたのです。
だから、家族に愛情を注がれている道場生は、熱い青春を過ごして欲しいということです。