2017年11月11日(八段語録3141)
道場生へ
(2)

今日は、木枯らしの舞う日になりましした。
宮城野区の区民センター祭りということで、交通指導でした。
十時半から十二時半まで交通整理に当たりました。
会場は、屋台を出して、お祭りの真っ最中でした。
二時間余りの時間でしたが、身体が芯から冷えました。
若い時には、なんとも感じなかったのですが、外の寒さは身体にこたえるのです。
それでも、地域の為に縁の下の力持ちになるという事です。
健康である限り、奉仕活動は続けていこうという心構えです。
それから、一時まで、錦ケ丘のコミュニティセンターに出かけました。
保育園で年長さんのお子さんが、新規で来場ということです。
カラテ道場を説明をする以前に、人見知りをするようで、大きな身体の私に不安を覚えるようでした。
それでも、体育館に入ると、同じ年長さんに引き入れられて稽古までするようでした。
幼児から小学生そして、中高から大学生一般まで幅広い年齢層が道場で汗を流しています。
指導者として、渋谷指導員が多くの愛情を注いで、道場を盛り上げています。
今では、五十人程の道場生が通う教室になっているのです。
しっかりと、極真の伝統を立てて、多くの人達の教育を担っているのです。
さて、手塚グループとしての道場のコンセプトは、「家族愛」ということです。
このことは、何度もブログの中で表現しているので、またかということもあると思います。
それでも、主張はやめないのです。
同じ志をもつ人が、「家族愛」から理想の実現に向かって道場という事です。
道場は、一人の孤独な修行の道のように思われがちなのですが、違うのです。
例え、道場に通ったとしても、一人ではわずかなことしかできないことを思い知るのです。
つまり、独りよがりでは、何も成すことができないということです。
この道場で学ぶことは、互いに助け合うという精神なのです。
道場で学ぶことは、自分自身の修行の追求とお互いが助け合う精神なのです。
そこで、手塚グループが主張する「家族愛」と、それからの理想へと向き合えうことができるのです。
知らず知らずに、「家族愛」の体験をするのです。
そのような、お互いに指導し合う、厳しくも暖かい道場であるということです。
道場に入門すると、挨拶と礼儀を徹底的に指導します。
それは、人としてのコミュニケーションをスムーズに出来るという第一歩なのです。
道場で何故いつも顔を合わせて、稽古ができるかということです。
それは、道場生同士の連帯が、家族のような愛情あふれる雰囲気になるということです。
ところで、道場で培う「家族愛」の精神は、自宅に持ち帰り自分の行動を振り返るのです。
親子の関係とか兄弟との関係とか、様々です。
そうすることによって、どのようにコミュニケーションをとるかということを道場生は思うのです。
家族を両親任せにするのではなく、自分の役割を発見するという作業も始まります。
自分に映る家族という存在が鏡になって、色々と気がつくことが多くなるのです。
自分で捉えようとするのですから、家族が自分の四肢五体のように思うのです。
両親に対する注文もでてくるだろうし、自分もやらなければならない項目にも気付くのです。
気付く理由は、基本稽古や移動稽古そして型などを通じて美しい姿を見出そうとするからなのです。
そして、美しい人間関係のあり方を模索するということにもなります。
空手道を通じて培う倫理道徳は、その美しさを表現するツールになるのです。
醜い心からの脱却であり、人としての生き方をより美しく綺麗にありたいと思うのです。
もちろん、服装ということもありましょうが、極真空手を習うに当たっては心ということです。
かつて、大山総裁は、試合において美しい組手を目指すように檄を飛ばしていました。
それ故に、お互いに分かち合うことが出来るものを見出すのです。
それも、鏡を見るように、お互い尊敬して綺麗な人生を歩もうとするのです。
結論として、「家族愛」の充実のための稽古をしていく道場ということです。
当然、極真会館の出発点は大山総裁です。
その意思を汲んで、家族を中心とした道場運営を提唱したのが手塚会長なのです。
そして、その観点から、これからの道場は普遍なものとして運営されるのです。
道場はお互いに分かちあって、信頼関係を築いていこうとするのです。
稽古で生命力が溢れるのであり、お互い掲げた夢や希望に向かっていくのです。
手塚グループを継承した立場からするならば、しっかり家族を大切にするところから始まります。
責任者としての私の姿勢は問われるというものです。
不完全な事が多いだけに、私自身も修行を重ねるということです。
極真空手を極めていこうとするのですから、その道を追求するだけです。
絶対ということはあり得ないでしょうから、完全に向かって修練です。
そして、お互いが共鳴しあうことができれば、増幅するというものです。
あれも良いではないか、これも良いではないかと思っていたら、前に進みません。
腹を据えて、取り組むということも必要だと思うのです。
つまり、道として極まるのが極真空手であってほしいのです。
この道は、決して虚しいことではないのです。
単なる幻想でもないのです。
それだけに、この道を極めましょう。