2017年11月10日(八段語録3140)
道場生へ


極真空手を修行する理由を古い指導者と自分に訪ねてください。
間違いなく、私達の時代は、強さに憧れたからであります。
その為に、道場に通って、技と力を身につけたのです。
護身術にもなり、丈夫な身体を作ることにもなります。
それなりに空手が身に付いてくると、もっと重要な事に気が付き始めるのです。
徐々に、極真空手が好きになるのです。
空手にハマるという状況になるのです。
そうする中で、深く空手を掘り下げていくようになるのです。
極真空手を通じて人生に対して、生き甲斐という充実感を感じるようになるのです。
それは、空手そのものであったり、人生の目的のなんたるかを見出したりするのです。
また、自分の周りの環境を整備しようとするのです。
家族を大切にする事や、生命と理想への取り組みについて検討し始めるという事です。
まだ、少年期の時は、それほど感受性は強くないのですが、青春期を迎えると豊かになります。
それだけに、極真空手は、自分を見つめることできるツールになるのです。
それでも、ただ漫然と取り組んでいても良いのです。
継続していくうちに、その人しか見えない指標が示されるという事になるのです。
さて、極真空手を通して、重要な要素に触れ始めるというものです。
曖昧に過ごした日々を反省するような思考回路が生まれるのです。
自分自身に対して、肉体と精神を鍛えるという事の効果が生まれてくるのです。
それが、自分の夢を追うという事にも繋がっていくのです。
良く偉人伝を読むと、恵まれない家庭環境の中で超えてきたようなことを描いています。
この極真空手の道場では、そのようなストーリーには極力ならないようにするのです。
それは、重要な人としての要素が家族であると発想しているからなのです。
その「家族愛」を重要視しているのです。
この発想が手塚グループの根幹をなしているのです。
そして、何故極真空手を継続するかというならば、健康な肉体を創造して行くのです。
それだけでなく、人生を生き甲斐あるものにする極真精神を身につけるのです。
そのための家族をベースにした生き方は、必要な道徳と倫理を学ぶという事になるのです。
それで、何をするのかというならば、家族を発射台にして、理想に飛び立つのです。
家族と健康な体に立脚するだけで、人生を生き甲斐あるものにすると確信しているのです。
そして、その為に日々の鍛錬を継続しながら稽古をするのです。
これが、極真会館手塚グループの重要な姿勢なのです。
ところで、極真空手で身につける「家族愛」は、どのような意味を持つかという事です。
家族は、当たり前のように愛ずる家族が存在してこそ成り立つのです。
今の社会は、家族という事が変形したりしています。
離婚あるいは再婚ということもあります。
さらには、シングルマザーという事も多くなっています。
それでも、家族は愛する対象が存在すればこそ成り立つのです。
それだけに、形にこだわる事なく、置かれた環境でも十分に発揮できるというものです。
そして、どんな状況であれ、互いに分かち合うという事でなければ意味をなさないのです。
我が家族のことを振り返るまでもなく、子供達の成長と共に変化してきたのです。
東京での居住もありました。さらに大阪にも住みました。
そして、実家に帰って来て、両親の介護ということも経験したのです。
単身赴任ということも、多くの家族の中にはあるでしょう。
それも踏まえて、家族は成長させたいという事です。
お互いに補い合いながら、タネから芽をだし、成長してつぼみから花を咲かせるのです。
そして、結実して、子供達が新たな家族を持つようになるというものです。
「家族愛」の意味合いは、理想に向かって、そのような事であると考えているのです。
結論として、空手の修行をするという理由は、単なるスポーツとは違うという事です。
家族を大切にすることから始まって、全ての理想に通じて行くのです。
家族がしっかりしていたので、私自身の理想もとてつもなく大きかったのです。
それも、常識では考える事ができない内容も推し進めて来たのです。
この道場も、このように社会に対して市民権を得るとは誰も考えなかったのです。
一緒に付いて来た弟子でさえ半信半疑ということでした。
しかし、月日が立つにしたがって、目に見える形で具現化して来たのです。
紆余曲折は確かにありましがが、やる気を抱いでくれた弟子たちがサポートしてくれたのです。
その勢いは、実際に実現して行くパワーに驚くほど成長著しかったのです。
それだけに、今となっては、付いて来てよかったという弟子が多いのです。
それは、取りも直さず、家族を犠牲にして取り組んで来たのではないのです。
家族を輪の中において、推し進めて来たからこそ、実っていると思っているのです。
道場生の皆様も、様々な課題を抱えていることは百も承知です。
それだけに、見切りをつけて去るような道場生にはならないで欲しいのです。
去って行った道場生が羨むだけの理想への挑戦をしていきたいものです。
それが、極真魂を抱く道場生の姿であると確信しているのです。