2017年10月27日(八段語録3131)
極真空手を何故習うのか(10)
今日、親父の弟の「友家」叔父をあの世に送りました。
本日告別式に参加してきました。
親父の親戚が多数集まっていました。
お墓に、納骨して、一連の葬儀を終了しました。
何故かしら、最後の会席の場では、和尚の隣のVIP席を準備してくれていました。
この家の「長男の息子」ということだと思うと光栄に思えました。
それだけではなく、極真会館を生涯に渡って貫いて、責任者になっているということもあります。
人生短いものです。
それだけに、一つの道を極めるということを親戚に認めてもらう道であると思うです。
一つの時代が終わって、私達の時代に入っているということでしょう。
そして、後の世に繋いて行くのが私達の責任であるように思うのです。
こうして、自分の責任がなんであるかということを自覚する昨今です。
今まで培ってきた全ての内容を全て投入する責任があります。
今日は、空は晴れやかかでした。
そして、静かに叔父を送ったのです。
親父をあの世に送り、今回叔父を送ったのです。
世代は移り変わるということでしょう。
さて、極真会館の責任をもつということは, 様々な内容が求められます。
それだけに、重責を担うということになるのでしょう。
特に、意識していることは、道場生を一人前の人間に成長させようとすることです。
この事を、いろいろある中での一番優先している事なのです。
成長させようとする道場生に、どのように寄り添うことができるかという事です。
道場生は、幼稚園や小学こう低学年で道場の門を叩いてきます。
もちろん、本人というよりは、両親の意向が強いのです。
習い事の一つという事です。
そして、いつの間にか、二十数年の指導に至っているのです。
その間に、子供達は成長して、大学を卒業するまでになっているのです。
本人が、進路を選択して世の中に出て行くようになるのです。
そこで、私の立場としては、どのように極真精神を活かすかという事を話すのです。
もちろん、技術的な側面は、社会に役立つものではないのです。
それでも、精神面は、逞しく社会で行きて行く上で、必要な内容が豊富にあるのです。
そのような、意識で道場生を見守ろうとするのです。
時には、過ちに対して強い叱責をします。
それも、道場生の将来を思えばという事です。
ところで、私自身を振り返ると四十数年の間、極真空手に投入してきました。
極真精神の真髄を学び、肌で身につけてきた人生であったと思うのです。
その内容を、この極真精神で道場生を育ててきたという気持ちがあるのです。
私の極真の実践歴を持って、道場生を無限に大きく成長させたいという事です。
そこには、いつも道場生に対して、愛情を注ぐという気持ちが大きいのです。
もうこの年齢ですから、道場生の為に尽くすということが生きがいになるのです。
限られた人生だけに、今まで培ってきた内容の全ての継承を試みるのです。
そして、忘却地帯が無いように、心を配りながらの日々を送ろうとするのです。
対象が、商品ではないのです。
あくまでも、素晴らしい個人に対しての投入なわけです。
商品の売り買いでお金が動くかもしれません。
しかし、道場生に対しての愛情は、お金では計り知れない感動があるのです。
その投入が、自分の人生を価値あるものとしているのです。
十分ではないのですが、私の生き様によって、多くの人が生かされると確信するのです。
もちろん、霞を食べては生きることはできないのです。
それなりの、運営はしっかり対応しなければならないことも私の責任ということです。
結論として、これからが本番という気持ちで、道場生に心血を注ぎます。
だからと言って、私との軋轢で道場生を失いたくないという気持ちは強いのです。
あくまでも、原則的に、武士道精神で対応して行くのです。
自戒も含めて、厳粛に対応する覚悟ができているということです。
そのような、道場ですから、決してマイナス面への助長はさせないという覚悟です。
無限に極真精神を道場生に表して行きたいということです。
そのような、責任者について来て欲しいいという気持ちは大きいのです。
私自身、もう無限に投入する覚悟はできているということです。
今回、来月から私自身の指導者教室を持つようにしました。
常設道場での、週に一回の選手会ならびに指導者としての心得の教室です。
もう既に、大人の仲間入りをする道場に対して愛情を限りなく注ぐわけです。
どれだけ、成果を表すことができるか未知数ですが、一生懸命取り組みます。
この環境が最高であったと道場生に感じてもらえるように努力します。
それだけに、極真空手を習ったという良き思い出を作って行きたいのです。
二十年間の間、多くの指導者を輩出してきました。
これからが、私自身の本領を発揮する舞台であると自覚しているのです。