2017年10月25日(八段語録3130)
極真空手を何故習うのか(9)
未だ人生途上です。
振り返れば、数限りない限界を超えてきました。
その度ごとに、息詰まる闘いの連続でした。
それでも、まだまだという気持ちが心を覆うのです。
それは、勝敗の分岐点を心臓が止まるまでと、決めているのです。
一喜一憂してどうなるのということにしているのです。
時間をかけて、困難に立ち向かうという精神です。
それは、自分の意志力が時間をかけることによって、成就して行くという信念なのです。
日々特別なことを行っているのではないのです。
決められた時間圏内に、どれだけ理想に向かって行くかに挑戦なのです。
少年時代から、そんなに機敏な能力を発揮していたのではないのです。
誰よりも時間をかけて、諦めずに取り組むということを、自分のライフスタイルにしたのです。
愚鈍であり、何事もスタートダッシュに遅れを取るという事が常でした。
それでも、コツコツと築き上げることを自分のポリシーであると思っていたのです。
時間をかけた分、クラスメイトと同じように目標に到達したというものです。
それは、私の変わらないライフスタイルになっているのです。
さて、人生を振り返るまでもなく、辛く思うのは、そんなに長くないのです。
またその辛さも、振り返ると楽しい思い出に残っている事が多いのです。
当たり前ですが、人生一世紀以内のあゆみに他ならないのです。
そんなに、くよくよしてどうなるというものです。
それだけに、自分自身を喜ばせるとしたら、ひた向きに一生懸命あゆむということです。
この年齢になっても、この姿勢は貫くのです。
人生未知との遭遇ばかりです。
繰り返しているようでも、いつも次元が違うのです。
それだけに、新鮮な感動を受けるというものです。
会長が亡くなって、十ヶ月が過ぎましたが、会長の立場に立つと新たな感性が生まれるのです。
たかが極真空手ですが、二十代から積み上げてきた内容は、無限なのです。
そして、年齢ごとに、違った感性に導かれるのです。
不平不満を抱いて、極真を去って行く人は多くいました。
その去って行った人は、結構別の団体で同じ課題にぶち当たるというものです。
だから、道場が問題ではなく、取り組む自分の問題として捉えたほうが良いということです。
ところで、道場生として様々な指導を受けて、ある程度まで成長して、これからという時に、去って行くということは、きついものがあります。
結局親が中間に入って、道場との架け橋を爆破してしまうものです。
それは、わたしにも、また道場生にも防御できないのです。
ただ全てを受け止めなければならないのが、私の立場ということでしょう。
何故かしら悲しい気持ちになるのは仕方がないことです。
しかし、ここまで道場生を成長させたという心は十分にあるのです。
道場生の親と私との意識の差は大きいのです。
それだけに、次のステップを踏むしかないということでしょう。
ただ、道場生の成長を私が見届けたいというのが本音ということです。
その見届けるに相応しい歩みを今まで、極真会館で歩んできたのです。
これは、誰にも譲る事ができない自信と信念なのです。
わたし自身、倫理道徳を守るということに対しては、生命がけです。
自分の不祥事で「迷い子」を出さないという信念なのです。
心の傷と体の傷は決して付けさせないのです。
それ故に、聖人として振る舞おうとするのです。
結論として、道場生が、ちょっと芽を出したからといって、有頂天になるのは禁物です。
10年もしないうちに道場を移るようでは、その試練は移った道場でも出てきます。
一生懸命稽古を重ねた、道場生は、極真の魅力を十分に味わっているはずです。
それが、顔を上げて出て行くようでは、何故極真の道を歩んだのかも理解できなくなります。
未だに、愛情あふれる私が、悲しい気持ちになるというものです。
今回、全体に出した公文は、そのような途中下車がないようにという気持ちです。
それだけに、道場生に多くの恩恵を与えて行きたいという思いになります。
それ故に、今から教育に走り出すという事です。