2017年10月23日(八段語録3129)
極真空手を何故習うのか(8)
昨日IBKOの全日本選手権大会に行ってきました。
少年少女の全国大会で、千名程の選手が集まっていました。
台風も接近しているという事で、早めの開会式をして、終えようという事でした。
それでも、連絡が行き届かず、結局は十時の開会式になっていました。
私はというならば、七時に衆院議員選挙投票所に妻に送ってもらってもらいました。
そして仙台駅出発という事でした。
新幹線はやぶさで東京へ、そして横浜の関内へ直行でした。
雨は降り注いでいましたが、交通機関の乱れはなくスムーズに十時には到着です。
横浜文化会館に到着して、道場生と父兄に会って臨戦態勢に臨みました。
宮城県本部としては、中学女子の全日本がメインになっていました。
それだけでなく、中学男子の参加、小学生男子の参加、更に小学女子の参加がありました。
中学女子以外の道場生は、判定に対しての無知もあり、苦戦を強いられていました。
それでも、一生懸命に悔いない戦いをしていたという印象でした。
中学女子は、優勝を伊藤、三位に小林が入っていました。
残念なことに、元道場生が他流派から出場していました。
中学女子で一緒でしたので、心はなんとも言えない気持ちになっていました。
それでも、本人が成長するならば、それでよしという事で納得しようとしていました。
さて、やはり理想は、武道精神を身につけて欲しいという事です。
恩を仇で返すようなことは、したくないものです。
また、そのような教育はすべきではないのです。
結局、日の当たる道を正々堂々と歩んで欲しいということです。
もちろん、私達の指導が至らなかったということは、反省材料になるのです。
高い理想を抱き続けて、指導に専念してきました。
私自身、その指導が正しかったかということは、検証すべきことです。
それでも、自分自身が歩んできた確固たる極真の道は、間違いないと自負するのです。
どんな困難な時も、極真精神で乗り越えてきました。
それは、試合だけではなく、人生そのものに対してということも含めてということです。
私の極真の道は、たとえ柔道の二段出会ったとしても、白帯から始まったのです。
そして、ゼロからの出発として、自己成長の第一歩として位置付けたのです。
この白帯からというセロからの姿勢は、目標をはっきりさせた訳です。
どのレベルになれば、どうなるという事が目に見えて分かるのです。
昇級をする事で、理想への実体を捕まえる事が出来るというものです。
次の級を目指して、新たなる心情の境地に向かうというものです。
ところで、私達は、極真精神の中心で人生を闘おうとするのです。
その事は、徹底して行きたいのです。
というのも、目標がなければ、力が湧いてくるはずもないのです。
この姿勢があるがゆえに、最大のパワーを発揮させる事が出来るというものです。
極真精神を持っているがゆえに、自己管理に対しても厳格に出来るのです。
日々が、目標がなければ、安易な道に流れてしまいます。
それを、阻止して、自分に厳しくするわけです。
環境の整理は当然整頓するのです。
生活においても、無駄なお金は浪費しないような対策もとるのです。
流されるようになると、浪費グセは際限なく広がってしまいます。
それだけに、自分自身に釘を打つとしたら、精神的姿勢からということになります。
道場で指導を受けながら、最後まで、従順に吸収しようとするのです。
そうすることによって、新たなる人生への姿勢が生まれるというものです。
私の場合、その姿勢は、酒もタバコも嗜みません。
それは、我慢するということではなく、無駄なことをしたくないという気持ちからなのです。
行くべ道が忙しいのに、そんなバカな事はしたくないという精神状態になるのです。
結論として、躊躇して他の道に迷い込むようであるならば、ボタンの掛け違いとなります。
極真の武道精神を先立てて、日々成長の道を上り詰めて行きたいものです。
だから、道場を変えることなく、日々純粋に歩んで欲しいということです。
それが、最後まであゆみ切る事が出来る条件になります。
迷路に迷い込んで、無駄な苦労をさせてはならないという事です。
もがき苦しむだけで、成長とは関係なくなってしまいます。
道場で自分が成長し続けているということの実感をさせるのです。
そのためにだけ、他流試合もあるというものです。
それだけに、道場生に成長しているという実感と誇りを持たせてあげたいのです。
利害打算で動くようであれば、最後は利害打算の虜になってしまいます。
本当の道場生になるために、私について来てくださいというのです。
不平不満は、絶対に禁物です。
今回の離反した、道場生を観ると、不平不満の渦に巻き込まれて、希望を見出せなかったでしょう。
日々の稽古で、汗を流して頑張る問う事は、自己成長の道なのです。
不平不満がなければ、希望を抱いて行く事が容易くなるのです。
そうすれば、落胆する事なく、前進する事が出来るというものです。