2017年10月20日(八段語録3127)
極真空手を何故習うのか
(6)

今年の10月は雨ばかりで日照時間が少ないのです。
気持ちも何気なし明るくなりません。
それでも、時は過ぎていきますから、日々なすべき事をしっかり意識するということです。
現状を維持して、さらに積み上げていく事に対する姿勢を堅持する気持ちがあります。
創始者である大山倍達総裁からの伝統を引き継ぎながらの新しい開拓です。
責任者に立ってみて、世界を抱くような気持ちが日々の生活に現れます。
今日も、朝起きると、世界地図と日本地図を眺めるのです。
世界各国の現場に心を馳せるのです。
手塚グループの次の世代を引き継ぐものとしての自覚が芽生えてきます。
入門当時の頃は、単なる修行者でしたが、積み上げてきた年数が多いだけに、感じることが多いのです。
極真一筋の道のりは、それなりに充実しているという気持ちになります。
修行時代、選手時代、師範代時代、師範の時代、そして、グループに責任を持つ時代と、時を重ねてきました。
どのような事があっても、最後まで極真の人生を全うしようと思うのです。
今日は、アメリカの伊藤世界事務局長から連絡がありました。
東欧諸国のアルメニアの加盟があるという事で、早速現地に飛ぶという事でした。
今年になって、加速度的にグループに加盟する国が増えているのです。
それだけに、日々の自己管理による犠牲精神が問われるというものです。
さて、今まで、いくら苦労して労力と時間を費やしても、苦痛は感じませんでした
それより、理想が心を明るくしてくれたのです。
この極真の理想を背負ってみると、投入しても、それ以上の刺激が帰ってくるのです。
一言で言うならば、結果的に極真空手に一途に思い入れた人生になったということです。
平たく言えば、極真空手に気を狂ったと言う事でしょう。
ちょうど、妻と恋に陥ってしまう関係にも似ています。
それだからといって、気持ちが冷めるということはなかったのです。
敗北はありました。それでも、全国を流浪しながら蘇ったものです。
自分が生命をかけても、どんなに苦しくても、痛みを覚えても喜びの方が強かったのです。
選手時代を振り返っても、たった三分の試合のために、一年を費やすのです。
三百六十五日、雨が振ろうとも槍が降ろうとも、日々稽古の継続でした。
時が迫って、大会に出場するようになるのです。
大会出場は、自分に戻って、刺激が強くなるのですから、喜びもひとしおということになります。
自分が稽古してきた一年間よりも、激しい刺激に見舞われるわけです。
絶えず切磋琢磨しながら、稽古を重ねてきました。
それでも、報われるのです。
それ以上に、傷だらけになりながら、なんとも言えない充実感が待ち受けているのです。
その為の苦労なんか、なんでもないように思ってしまったということです。
ところで、責任者の立場に立つと、私だけの意識だけではなく、スタッフが活躍してくれるのです。
アメリカの伊藤事務局長がアルメニアに向かいました。
世界と日本をまとめる杉原事務局長が極真アプリを完成しつつあります。
福岡の川崎師範は、世界大会に向けて準備をしてくれるのです。
それだけでなく、世界中の師範達は、日々の稽古を積極的に推し進めています。
昇級・昇段の帯の発注で、日々追われるようにになる昨今です。
空手着の注文も増えてきています。
このような現場は、極真の理想が僅かでありながらも叶っているということです。
この理想があるが故に、スタッフも選手も信頼関係を構築できるというものです。
理想を前提にしているので、深い絆が結ばれるというものです。
一日が充実するだけに、この理想は本物であると実感するのです。
この理想は、道場生が虜になるぐらい希望に満ちているのです。
力学的立場に立つまでもなく、入力よりも出力が大きいのです。
その刺激が纏わりつくだけに、熱中してしまうということです。
誰も止める事ができない理想が待ち構えているという事です。
それだけに、日々輝く人生が送れるというものです。
結論として、私にとって「真」の立場であったのが極真空手であったのです。
そのために、人生そのものが、充実したのです。
今後、この実感は変わらないと思うのです。
それだけに、思い切った舵取りもできるというものです。
確かに、投入しますから、犠牲はつきものです。
それでも、悩みを抱えるような消極的な犠牲にはしないのです。
実にアクティブな犠牲なのです。
それだけに、感動も湧いてきます。
また、喜びもひとしおというところです。
キザなことを表現するのですが、犠牲になった以上にフツフツと喜びが湧いてくるというものです。
道場生に要求するということではなく、必要な内容を埋めてあげるような姿勢ということです。
この道場では、互いに尽くすという事が、自然に行われやすいのです。
それだけに、良い人間関係が築かれているようなものです。
そんな誇りある道場です。
このようなところで、学ぶという意義を見出して欲しいのです。
それが、極真空手でなければならない理由になるのです。