2017年10月11日(八段語録3123)
極真空手を何故習うのか(2)『道場生の立場』


振り返るまでもなく、地上最強の映画における極真空手は衝撃的でした。
この時期に、私は極真空手に出会ったのです。
ちょうど、私は自己鍛錬のための必要性を感じたのです。
極真会館に入門を決意して、稽古を始めたのです。
それまでは、東京の講道館に通ったりして、柔道の延長で心身を鍛えたものでした。
自分自身のテーマは、自分が自分らしく、自分を管理するということでした。
結構、朝早く起きて、トレーニング重ね、自分らしい生き方にこだわっていたのです。
その当時は、お金を稼ぐという概念は無く、社会に出ていても学生の延長のようでした。
ただ、確かに自分らしくという原点を見出そうとしていたのでした。
当時は、当たり前に空手ブームが湧き上がってきました
ブルスリーの「燃えよドラゴン」、ジャッキーチェンの「カンフー映画」がブームでした。
それに、あやかるように、地上最強の空手が映画で放映されたのです。
画面に映る映像は、人間業ではない衝撃を受けたものです。
一躍、この時代姿三四郎に見る悪役の空手が、正義の味方として登場したのでした。
一方柔道が、山下選手のような英雄的存在がスポーツ紙を飾っていました。
それでも、柔道を高校まで修行し二段の腕前でしたが、柔道への道へとは進まなかったのです。
柔道では、道を極めるに難しいと直感していたのです。
というのも、畳の道場という環境が社会に出て、通常の生活になかったのでした。
さて、極真空手を習うようになると、打ちのめされる程の衝撃が続きました。
打撃ですので、今まで経験したことのない痛みを感じるのです。
柔道を修練していましたの、投げられることに関しては、受け身を取ることができます。
ところが、打撃に関しては、全く歯が立たないのです。それは、技の無知から来るのでした。
まともに、みぞおちに入るのですから、身悶えする痛みが走るのです。
誰でも言えることですが、今までの人生で、殴られるという事は、ほぼ無かったのです。
それだけに、対応の仕方がわからないのです。
それだけに、謙虚に基本を学んで、「突き」「受け」の地道な練習を重ねたのです。
それだけに、技術の修得をする為に、情熱を傾けるということになったのです。
自分の強さをもとめて、理想の自分探しの始まりでした。
先輩が強いということもあって、目標がすぐそこにありました。
具体的、現実的な結果が負けるということで、目の前に現れるのです。
今思えば、先輩は、技術や能力を先に兼ね備えていたのです。
それだけに、後輩としての、私がどのように伸びて行くかということを察知していたようです。
それだけに、柔道出身者ということもあって、早く潰してしまおうとする意識もあったと後から聞きました。
それにもめげずに、日々努力を重ねたというのが、偽らざるを得ない自分の姿勢でした。
ところで、日々稽古をするという事は、消耗戦の何者でも無かったのです。
稽古時間に対して、自分自身を投入するという作業が始まったのです。
そのことによって、自分自身との対話が始まるのです。
その消耗戦が、虚しく終えてしまうというのではなく、なんらかの収穫を求めたのです。
先輩との交流を深め、打ちのめされることを糧として自己成長の刺激に特化したのです。
先輩とのコミュニケーションを頻繁にしながら、稽古を深めたのです。
可愛がれようともしたのでしょう。少しずつ、級が上がるのです。
その級位が上がることによって、自信がみなぎるようになり、前に進めていけたのです。
私自身、挑戦したのは、極真空手の強さと、付加価値のように、人格の向上でした。
稽古時間を取るという事は、苦痛を伴うようなことなので、道場への敷居が高くなります。
なるべく、休みたいという気持ちが強くなるのです。
ここが、自分に対する挑戦であると思い、嫌がる自分を諌めて参加してきたのです。
このような作業をすることによって、理想とする強さを求めたということになります。
もちろん、大会に参加して、優勝するということも夢ではなくなるのです。
それだけに、稽古を通じて、自分を励ますことをしたのです。
このように、日々開拓の道を歩み続けた道場生の時代が私にはあったのです。
結論として、極真空手を通じて、理想と夢の実現を目指したのです。
そのために、日々の生活は犠牲に他ならなかったのです。
その犠牲の度合いによって、上達しながら、極真空手を極めていったのです。
目標を設定しながら、ひたすら汗を流すことしか、上達の道は無かったのです。
日々、現実そのものを投入するという意識なのです。
道場生に言いたいのは、少し気を抜くとするならば、崖から転げ落ちるようになるのです。
一ヶ月、稽古を怠ると、取り返すのに、三倍もかかってしまうのです。
そんな気持ちが、今の自分を支えているということなのです。
それだからといって、順調に稽古をし続けたわけではないのです。
自問自答しながら、悩みながらの日々でした。
それが、今となっては懐かしいのです。
それが、修行者の道場生としての道になったのです。
能力が有る無しに関わらず、継続して勝ち取るということです。
人生は、そんなに長くないのです。
やり直すということで、勿体無い時間を無駄にすることないようにしたのです。
修行中の道場生の時にこそ、素晴らしい輝きが待っているというものです。
一生懸命、苦行と苦労の道あるのみです。
このような姿勢が、道場生の「正道」なのです。