2017年10月10日(八段語録3122)
極真空手を何故習うのか


極真空手に限らず、武道は修養の道なのです。
また、その修行が観念的でなく、実際に技を身につけ、人格も磨かれるのです。
その為に、レベルに応じて、昇級・昇段が認められるのです。
日常の稽古は、当たり前に行い、そのレベルの最高峰を目指すのです。
自分自身の健全な精神と肉体を維持して行くという道を訪ねるのです。
その土台の上に、宝石のような個々人の人格を成長させるのです。
誰にも認められなくても、必至に稽古を重ねて行くのです。
そこに、人に尊敬される「奉仕の精神」が確立して行くというものです。
各々個人は、ダイヤモンドの宝石の原石のような存在なのです。
磨けば、光り輝くのです。
さらに、しっかり正しくカットをするならば、多くの人を虜にするのです。
入門当時、誰もが「海のものとも山のもの」ともわからないのです。
極真空手においては、指導者がいるのです。
その指導者によって、原石からの研磨が始まるというものです。
それも、指導者も道場生も時間をかけて熟成しながら、成長を重ねるのです。
指導者の姿は、理想への第一歩として映るのです。
当然、指導者は、見本とならなければならないのです。
決して、過ちを犯すことがないように努力するのです。
犯罪には陥らないようにするのです。
もちろん、交通違反であっても、気をつけるのです。
指導者とて、修行者に他ならないのです。
確かに、手塚グループの責任者の私としても、例外ではないのです。
私自身が立たされている立場で、最大限の修練をするのです。
そうでなければ、誰がついて来るかということです。
指導者は理想の架け橋にならなければならないと思っています。
道場生は修練を通じて、指導者を超えて行くべきです。
それ故に、指導者であれば、日々の修練に対しては、厳しく対応するのです。
道場生が習いたての頃から、指導者を超えて行くまで、日々投入するのです。
指導者も段階を踏んで理想の存在になることは当然のことです。
人生という限られた期間において、目標を立て、チャレンジして行くのです。
つまり、極真空手の登山口になって、理想の道を示そうとする努力をするのです。
指導者が自己を創造し、その恩恵を弟子に伝えて行くという「道しるべ」になるのです。
ところで、極真空手を道場で学ぶということは、第一に技を学ぶことになります。
日々、指導者に技術を身につけようとするのです。
それだけではなく、挨拶をはじめとする礼節を身につけるのです。
そのことによって、年齢の違う先輩達に対しても、コミュニケーション能力を身につけるのです。
それだけに、孤独存在ではないという自覚を持ち、多くの仲間も増やすのです。
第二に、技をベースにしながら、自分探しに乗り出すのです。
自分に隠されている能力を日々発見するという作業をするのです。
もちろん、道場だけの話ではないのです。
日々の生活の中に、極真精神を生かすわけです。
そのようにしながら、個性を磨く中で、自己が発揮されるわけです。
そのような人格から、礼節を重んじるようになるのです。
つまり、先輩後輩の世界を大切にすると同時に、同僚の世界も大切にするのです。
更には、森羅万象に対する感謝の念から衣食住に対するありがたみを実感するのです。
第三に、ただ単に、日々の生活をするだけでなく、自分の理想を果たして行くという実感を得るのです。
それは、級・段の取得を通じて実感することもただあるのです。
つまり、自分が理想とする目的に対して、段階ごとに近づいているという気持ちを抱くのです。
それが、道場生が段階ごとに理想へ向かって行くという方向性になるのです。
従って、極真空手を習うという理由は、あらゆる能力と情熱を道場生に引き出させることになるのです。
それは、指導する者も指導される者も同じなのです。
技術と能力に、情熱が増し加わるのです。
指導者も、道場生も必死になるのです。
その環境が極真空手の道場なのです。
指導する者も、精一杯なのです。
ましてや、道場生は悲鳴をあげるばかりになるのです。
限界を超えるところに、新しい世界が開けるというものです。
これだけ、追い込んで行く道場があるでしょうか。
もちろん、途中で挫折する道場生もいるかもしれません。
その道場生は、後からついてくればいい話で、諦めなければ良いのです。
限界まで追い込むということは、自己否定に通じます。
自己否定は、新しい段階へと引き上がる糸口になるのです。
苦し紛れの悲鳴は、最高の宝になるのです。
こんなに、技術と情熱を追求できる道場はなかなかないのです。
道場で、精根尽き果てるまで稽古を重ねるようにするのです。
それによって、報われた思いがするのも、道場なのです。
必ず、報われた思いが湧き出るものです。
ですから、一生懸命にできるのも、この極真空手ということになるのです。