2017年10月3日(八段語録3119)
理想への挑戦
(4)

私には死去された手塚会長との類似点が不思議と多いのです。
会長と私は暇があるなら、夢ばかりを追求するのです。
名実ともに「夢食」の会会長と副会長なのでした。
考えることで、誰もが実現出来ないと思うことを、平気で口にして語るのです。
ですから、会長との会話は夢ばかりの空想の世界で実にスムーズなのです。
でも周囲の人達は引いてしまうことが多かったのです。
私の若かりし頃から、夢の実現に向かうがゆえに、空回りが日常でした。
実に、嘘つきの権化のようでした。
ただ、外に向かって、経済的繁栄をもたらそうということではなかったのです。
また、見せびらかせるような、芸能界を目指すような姿勢ではなかったのです。
あくまでも、自己との戦いを繰り広げていくということに集中したのです。
それが、実際に、肉体を強化して、極真ボディを築きていくことになったのです。
また、指導力を身につける為に、あらゆる書籍を読みあさっていました。
外の社会に向かっていくというよりは、夢の実現のために自らの内的姿勢に向かったのです。
内容がないくせに、どのように指導力を発揮させようかという課題に挑戦でした。
当然、人間とはということに対しては、人を眺めては研究の対象にしていたのです。
人を掌握することはどのような行動をするかの研究でした。
そのうちに、人の輪を作っていくという作業が始まったものです。
さて、極真空手に対してもそうですが、人の研究をするなど内面の世界を模索したのです。
結果、強さは、全日本オープントーナメントに参加するに至るレベルまで引き上がりました。
また、人が集まるということにおいては、百人に近くの人の組織運営を無難にこなせたのです。
このような挑戦をしていた過去があったからこそ、手塚会長とは意気投合でした。
思えば、二十代の起床は、常に4時半でした。
早起きは三文の徳どころではないくらいでした。
すぐに、頭を使って、原稿を書いたのです。
また、どのように話せば受け入れられるかの挑戦でした。
そのような意味では、言葉に対して洗練しようとしたのです。
勉強といっても、学問ということではなく、人を動かすにはどのような言葉選択するかでした。
そのようなことで、人を動かす言葉を追い求めたということです。
デールカーネギーの教えは、参考になりました。
また、人間関係の原則をマスターしようとしたんのです。
聖人義人の名言集も参考になりました。
別に、政治家になろうという発想ではないのです。
あくまでも、人を感動させるにはという言葉の選択に徹していたのです。
そのためにも、倫理道徳を守るという事は当たり前にしていました。
酒もタバコも、女性に対しても、関心を持つまいとカットしていたのでした。
ところで、四十歳になると実家に帰るように両親から帰ってこいコールがあました。
ちょうど、結婚して五年が経過していました。
その時には、三人の子供達にも恵まれました。
指導員になっていましたが、肉体の限界を感じていました。
家族を持ちながら、肉体の限界を超えていくにはという模索も始まったのです。
その結論は、頭脳を開拓するという事の挑戦を思い立ったのでした。
頭脳の分野を磨くために、東北学院大学に入学したのです。
それも、家族に内緒で独断でした。
高校時代の成績はそんなに褒められたものではなかったのです。
それでも、四十の手習いで受験勉強して、夜間でしたが、合格して勉強するチャンスに預かったのです。
肉体から頭脳の鍛錬に矛先を変えたのでした。
結局、8年の間、大学・大学院に通い続けました。
そんな時に、出会ったのが、手塚会長でした。
夢の話は良く合致しました。
それだけに、仙台道場での師範代としての四年間の歩みは充実していました。
本格的には、大学院を卒業してから、師範という立場で会長と共に歩んだのです。
結論的に、会長との出会いは、必然的出会ったと思うのです。
先祖が結びつけてくれたような出会いであったのです。
意気投合したので、会長への支え方は半端ではなかったのです。
肉体の強化・人間関係の充実・そして、学問の飽くなき挑戦、全てが結集されたのです。
今まで、学んできた肉体・精神・学問の全てを、投入するという段階に入ったのです。
この土台で、会長を支えたんのですから、会長はともあれ、私は充実していました。
なんでも答えるだけの準備ができていたという事です。
四十八歳にて、立つという事でした。
それから、二人三脚が始まったのです。
実に、会長も私も破竹の勢いでした。
私はというならば、会長にこの生命使ってくださいという気持ちでした。
全国と海外を走り回りました。
どんな時でも、いつも一緒だったのです。
というのも、会長とだけしか、話は合わないのです。
夢と理想を追い求める会話は続きました。
私自身も、体験と学問における知的整理が武器になりました。
そして、今も、激しく戦っているのです。