2012年6月11日(八段語録1710)
森家の系図(4)「定近」を守った祖母
先祖の「定近」に一番影響を与えたのが、祖母なのです。その娘、「定近」の母の事は詳しくわからないのですが、「飛騨金森史」(金森顕彰会)の史実を基にすると斎藤氏の一族に当たるのです。金森一族が皆梅鉢の紋を使っていることから、「岐阜県史」の中を眺め、それらを原点にすると守護代斎藤彦四郎の娘であると考えられるのです。
というのも、応仁の乱以来、最強の軍として中央政界も左右した美濃斎藤氏の軍を柿帷衆(かきかたびらしゅう)といったそうです。多くの合戦で勝利したのですが、斎藤氏の軍が金剛寺の陣より観音寺へ退去の途中包囲され、一族家臣ともに自害したのです。(後法興院記)つまり、斎藤一族の主力の家臣は残らず自害、討ち死にしたのです。
このような死んだ者が多かったため、斎藤一族の中での「定近」の妻となる人物は限られていたのです。このような婚姻の流れがあったようです。ともかく「定近」一族が夜中に、大畑村を後にして、「利貞尼」のいる武儀群に向かったのです。この利貞尼が祖母にあたるのです。もちろん、武家より身分が高い公家に当たるのです。利貞尼は公爵関白一条兼良の娘なのです。応仁の乱より、兼良一族は、斎藤一族に身を寄せていたというのです。そして斎藤利国のところに嫁ぎ明応四年(1495年)夫の利国が江州(滋賀県)で討ち死にしたので、尼になっていたというのです。
その祖母利貞尼が、定近に「定近殿、私は夫利国・息子利親を失いました。あなた様も娘の巳弘も長らえてくだされ。微力ではごさいましが、あなた様のお家再興をお助けいたします」という言葉をかけ、陰ひなたに助けたというのです。戦国産生を生きてきた女性の助けは重みがあったのです。このような祖母の援助があって大畑村を後にして、新天地を求めたのでした。
そして、祖母の助言は「定近殿、武士は戦ばかりでは駄目です。学問も大事です。頭を鍛えていけば正しい判断力を養う事ができます」と助言をしたというのです。このような女性の共助があったからこそ、領地を退いて新天地を求めることができたのであり、大きな決断もできたのです。定近一族は、斎藤利国様に家名の再興を近い、利貞尼の元気な身体と我が一族の行く末を見守ってくださいと手を合わせて、不破郡垂井の長屋影教の元に向かったというのです。