2017年9月9日(八段語録3105)
手塚グループはどのような組織にしなければならないのか

手塚グループに対する反面教師としてのある団体を例に挙げます。
「家族」という理想からは程遠い体験の連続でした。
その団体は、ボランティア組織で二十年以上奉仕させて頂いています。
安全・安心の街づくりの為に、活動できる立場です。
そして、今年も九月に、行事があり、一般に披露したのです。
実に公的な願いの為に、今年も頑張ったということです。
この団体は、一つの組織として、運営されています。
それだけに、社会に対して責務があります。
十数年間、一つの役職をこなしています。
私自身長い間、同じ事を繰り返しているという事です。
別に不満はありませんが、ボランティア精神と程遠い側面も垣間見ます。
実に、お金をかけた飲み会が多いのです。
それも、コンパニオンがついて、お酌の対応付きです。
原則、報酬からの個人出費ということで、合意という事ですから、咎められることはないのです。
しかし、飲み会だけに特化した馬鹿げた付き合いが続く、ボランティア団体は歪みがあるということです。
今の心境は、引退を一年後としながらジレンマだけが通り過ぎます。
今にして心にあることは、職責だけは全うしようとすることです。
そこで、私自身の姿勢という足跡を残すことが出来れば、「良し」としているのです。
さて、このような消極的な対応しか出来ない自分に、腹ただしくも思います。
それでも、このような非近代的な運営に対応してくださる先生が現れました。
ありがたい事です。実に上部で対応してくださり、改革の道を示しているのです。
確かに、私自身一緒になって飲み会を楽しむという選択肢もありました。
しかし、馬鹿げた事です。
本来の目的と現状に矛盾を感じながら、静かに時に流されているという事です。
その組織の問題点として、客観的に問題を整理してみました。
具体的には、表現できませんがそれなりに列挙します。
一つは、人権の問題です。
勝手に、人事を私物化という事です。
これは、別に表面に出ないのでしょう。
勝手に決めることに誰も干渉するはずはないのです。
いやできないのでしょう。
しかし、当事者は屈辱の何ものでもないのです。
辞めることも考えましたが、踏みとどまった次第です。
それ故に、嫌われ役を買って出ているという芸当を見せているわけです。
二つ目に、巧妙な公金の使い方です。
上部では、個人に報酬を振り込んでいるのです。
それを、いかにも公的活動のようにしてお金を徴収するのです。
それも、ほとんどが飲食代ですから、改善すべきと訴えるのですが、難しいようです。
ところで、ボランティアであっても、組織ですから、共に納得すべきです。
しかし、意見はほとんど抹殺ですので、二つに別れることを余儀なくされます。
お互いに保護しあう関係では無くなります。
その立場も、体験し、味わうということにおいて、勉強になります。
公務においては、お役目として調和を保とうと思います。
それだけの事です。
お互いに信頼関係が結ばれるかというならば、無理というものです。
このような矛盾を、味わいながら、二十年に及んで参加したボランティアです。
この団体のような人間関係が、仕事であったらと考えると、震えがきます。
振り返って、歯車が合わない現象の発端は、一人の新しく所属してきた人から始まりました。
その人物は以前に、自分が不当に扱われてきたということを嘆いていました。
私は彼に対して、よく相談に乗りました。
そして、できるだけ、上に取り入ってもらえるように配慮もしました。
結果、登用され、私の上の立場に立ったのです。
それは、喜ばしいことでした。
しかし、彼は上司達とだけコミュニケーションをとるようになると、私の嫌がる宴会をネオン街で頻繁にするようになりました。
重宝な彼を上は使うのです。
それ以来、私は彼とは、静かな関係です。
そして、最近は都合の良い人材を他から引っ張ってきて、私の上に立てたのです。
このような不条理と感じる経験を好んで続けるつもりはないのですがこれも修行です。
それでも、後一年を残して引退をするのですから、もう少しの辛抱ということでしょう。
矛盾状態を味わう現状は、逆に言えば、手塚グループでの、理想の素晴らしさを大切にすることにつながります。
その矛盾を、このボランティア団体は経験できる環境として与えてくれました。
社会奉仕の精神を持って歩むという事は、本来ならば、共に信頼関係を持つという事です。
そうでなければ、正常な組織として運営できないという事です。
この組織では、飲み会中心であるゆえに、私ががん細胞という事でもあるようです。
それでも、自分の信念は曲げるつもりはないのです。
そのような経験は生かされます。
極真会館手塚グループでは、人体の骨と肉の関係でありたいと思うのです。
お互いに、無くてはならない存在であり、人体の一部としての認識です。
まさに、このような形骸化された崩壊状態の組織に手塚グループはしたくないのです。
できれば、皆が一つになって協力し合わなければならないのです。
私は、自分が信じる信念を通すつもりです。
難しいチャレンジですが、それでも貫くのです。
それが、私の責任というものです。
いずれは、ある先生の尽力により、健全なボランティア団体になるということを夢見るだけです。