2017年8月13日(八段語録3094)
個人から家族主義へ(6)

 武道精神で、家族を大切にすることが出来るかという事です。
今までは、不可能という事です。
宮本武蔵伝にも書き記していません。
まして、武道に関する書籍を紐解いても、確かなものとして表記されていないのです。
そもそも、そのような理論は無いという事です。
また、そのような先人は見受けないという事です。
武士道は、確かに家柄は重んじます。
それでも、家族の在り方の教えはないという事です。
ところで、空手修行は、道場だけという事に限定すると限界があります。
生涯の空手の道として継続することが困難になります。
というのも、武道精神を道場だけに限定できないのです。
人生そのものに、反映させるべきであるという事です。
そうでなければ、趣味で極真空手を、道場だけで稽古だけするという事にはいかないのです。
其れよりは、極真空手で培った武道精神を家族や地域社会に、生かすべきと発想するのです。
それでこそ、このような武道精神が生かされるというものです。
それで、どのように生かすかという事が問われるわけですが、教えは少ないのです。
 さて、そのような事はともあれ、道場生に武道精神を叩きこむことは、実に難しいのです。
難しい要因の一つに、指導者の問題があります。
道場生は指導者に付き従おうとします。
つまり、教える指導者を見つめる訳です。
あの指導者のようになりたいと、心の中で叫ぶわけです。
そうでなければ、極真空手の技術的側面・武道精神は伝わらないのです。
その指導者が、人生全般を司っていなければ、限界がきます。
ある一定の年齢だけで、終了してしまう事にも成ります。
道場生に生涯を貫いて指導できないという事にも成りかねません。
人は、成長するものです。
家庭を持ち、子供もできます。
その全般に渡って、どうするかの指導は必要なはずです。
その指導に、限界があるならば、途中までしか追随しないという事です。
何事も分野があるのではないかという事を言う人もいます。
確かに極真空手は武道という分野です。
しかし、人生を貫くのが武道精神であると思うのです。
それだけに、全てを網羅していく指導者であるべきであるという主張をするのです。
それでもって、道場生は、生涯の武道として教化されるというものです。
 ところで、私は、「武道精神は家族と地域社会を大切にする」と主張したいのです。
その教えを開拓したいのです。
教えだけでなく、そのような存在にならなければと思うのです。
そうでなければ、趣味で極真空手を習うという事になります。
実に軽いものにしかならないという事です。
ですから、「何をどのようにすべきか」という事です。
まず初めに、理想の家族として磨きをかけるのです。
どのように家族があるべきかという、標準モデルを作るという事です。
それを、できるだけ完成形に近づけるようにするのです。
実に、その完成形に近づけた家族の姿が、自分の家族から発するように努力するのです。
その為に、人生を歩んできたと結論つける訳です。
そして、その姿を教化の材料にするのです。
それは、どのようにしてという事ですが、「あのような先生になりたい」と慕われて初めて可能になるのです。
道場生に慕われるという事は、あのようになりたいと感化を道場生が受けるという事です。
感化されるという事は、嬉しい時は、嬉しい影響を及ぼし、真剣な時は真剣な影響を与えるという事です。
決して、強制から生まれるものではないのです。
私自身、生涯信頼される指導者に変化することが願われるのです。
結局、標本モデルを提示するという事になる訳です。
結論として家族が豊かに触れ合う事ができるように、道場生からも慕われる「気持ちの接触点」を持つわけです。
その時間が、楽しいという気持ちを引き起こす訳です。
その為の、努力が指導者の役割という事です。
そのような事を含めて、これからの指導者像を見つけていくべきと思うのです。
指導者が信頼されなければ、基本も型も組手もあったものではないのです。
無条件に心の中で道場生が融合できるように、指導者は努力するのです。
それでこそ、指導者と道場生の絆が深く結ばれるというものです。
その信頼関係は、時間と空間を飛び越えます。
それだけに、大切な気持ちのつながりが持てるのです。
まして、武道人生が、生涯にわたって、繋がる事になるのです。
そのような、夢を持つのです。
だからこそ、理念だけでなく、理想の家族としての実体を示そうと思うのです。
もちろん、絵に描いたようにはいかない人生です。
理想を実現するという事を意識して、闘う姿勢を持つのです。
それが、手塚グループの家族としての理想実現という事になるのです。