2017年8月9日(八段語録3091)
個人から家族主義へ(3)

 空手の修行の武者修行を終えたのが、三十四歳でした。
当時は、全日本大会では、最高年齢の現役選手として紹介されていました。
選手として、どこまで戦えるかという事に挑戦し続けたという事です。
全国から選抜された選手の中で、この年齢まで戦っていることに、会場からも声援がありました。
結局、17回全日本トーナメントが、選手生命の限界という事でした。
最後が、思いでのジェームス北村戦になったのでした。
自分のメモリアルに現役選手としてのけじめをつけたのです。
それは、新しい、目標を持たなければならないという、旅立ちにもなりました。
その時期に、結婚を決意したのでした。
心を共に過ごしてくれる伴侶を十年間待たせていました。
家庭を持つ自信が無かったからではなく、結果的に結婚がその時期になったのです。
人として、個人として修業の終止符を打つという段階になったという事です。
本格的に、妻と心を合わせるという修練に入ったのです。
妻の千順さんとの交流が、十年の歳月に及んだのです。
その間、プラトニックラブに徹していたのです。
一人の女性を愛するという事を、精神的絆の世界で、究めようとしたのです。
決して、愛情が無かったというのではなく、高いレベルでの関係を求めたのです。
 さて、私自身、三十四歳で家庭を築こうとする第一歩を踏んだのです。
新婚旅行は、熱海温泉でした。
マンション風のホテルに一泊です。
スポーツジムもあり、一緒に汗を流しました。
夕食を終えて、人生で初めて、女性と床を共にするという事になったのです。
夫婦生活の初夜を迎えたのです。
この女性を幸せにするという決意が漲ったものです。
それでも、彼女と共に人生を送るという事で、自分が幸せになるという自信はあったのです。
夫婦として、初めての事ばかりですから、珍道中ということです。
二日目は、熱海温泉から開業したてのデスニーランドに向かいました。
高級ホテルで、フランス料理を頼んだものですから、彼女は、喜んだのではなく、怒りました。
無駄遣いという事です。
この事件から、価値観の相違がお互い現れたという事でした。
それからというもの、妻に気持ちを合わせるという作業をするようになったのです。
亭主関白とはいかなかったのです。
その方が、恵沢多くありました。
いつしか妻を中心とする夫婦生活の始まりという事です。
 ところで、家庭を持つ等事は、仕事と同時に、妻を愛するという心が育ちます。
妻からの刺激に、心が酔いしれたのです。
個人の次元では、計り知れない愛情を共にするのです。
幸せな時間を共にするという恵まれた時間を共有するということになったのです。
妻からの多方面から来る刺激は、生きがいになりました。
妻の影響で、私の人格というタイプが形成されるのです。
というのもこの妻にして、自分の人格を表現できる舞台が広がったのです。
それだけでなく、柔和になる姿勢が、仕事面で生かされることになります。
仕事の分野に溶け込もうとする心にも、いい影響を与えることに気づくようになるのです。
さらに、責任感も芽生えます。
一人ではないという、自覚は、励みになりました。
多くの難問題も、二人で片づけようとする勢いが生まれるのです。
妻と結びつける中心ポイントが、夫婦の愛に重心が移行するのです。
よく相談もしました。
何気ない会話も楽しむのです。
そこに、言い知れぬ幸せな時が過ぎていくのに気づかされるのです。
 夫婦としての生活は、東京都三鷹市の寮から始まりました。
段ボール箱で作ったテーブルで、ご飯と味噌汁を頂いたのが初めて食事でした。
仕事も一生懸命でしたので、夜中のデートが多かったのです。
それも、この愛を失わないように育てようとする日々でした。
息子が生まれ、娘たちが育つようになると、あらゆる方向からの刺激に満たされました。
仕事も自由業という事もあって、子供達と接する時間が多く持てました。
家族の中で感じる愛情に酔いしれた日々という事でした。
この家族を守り抜くのが人生という決意に変わりました。
実に、家族の愛情に関しては、いくら宮本武蔵伝を読んでも表現されていないのです。
また、極真空手を追求し続けても、この家族という範疇には入っていけなかったのです。
それだけに、家族を持って、更に、手塚会長の指導を仰いだという事が、人生の転機になったのです。
会長から来る刺激は、世界中家族を増やそうとする理想だったのです。
それだけに、道場生を自分の家族と同じように、育てることに徹したのです。
このグループは、もうすでに、自分の家族同様なのです。
それを誇りに、指導者としての姿勢と礼節を抱いているのです。
このグループに出会ったことで、より大切な家族を育てるという姿勢が息づいているのです。