2017年8月2日(八段語録3089)
個人から家族主義へ

 宮本武蔵伝からの教訓です。
武蔵と友人の又八の生き様が、最初の章から比較されて描かれています。
二人は、合戦の戦場で敗走するのです。
戦場で、武具を盗む親子に出会うのです。
傷を負った又八は、焼酎で消毒して治療するお甲と、深い中になるのです。
武蔵はというならば、故郷に帰る事を意識します。
又八と帰る決意をするわけです。
そんな中、又八は、親子と夜逃げするのです。
そして、女性の誘惑に負けて、許嫁も捨ててしまうというストーリーです。
実に、人の生き方の比較になるのです。
小説ではあるが、どちらの人生を選択するかと問われるわけです。
修行者としては、武蔵という事でしょう。
しかし、誰もが日々を暮らす中で、誘惑にさららせるのです。
この宮本武蔵伝は、誘惑に負けない人生を選択することを意識するのです。
小説の意図するように、私自身修行の道を選択したのです。
この宮本武蔵伝は、中学校で読んでいましたから、武蔵を選択するのです。
そのような女性に誘惑されないという意識が、青春の心得となっていたのです。
 さて、今の時代、この誘惑に負けない生き方は古い考えという発想をする人もいます。
しかし、結婚しても、うまくいかない若者が増えています。
それも、できちゃった婚であったり、略奪婚であったりします。
結局、破綻をしているのです。
人生を歩む上で、ある程度の礼儀と節度は必要です。
結婚において、愛を育むならば節度は保つべきです。
野獣ではないのです。
しっかりとした、愛の表現として、礼としての節度を持って、事に望むべきです。
それは古い発想ではなく、時を貫いているように思うのです。
人は、家庭を築こうとします。
そうでなければ、子孫は繁栄しないのです。
両親を持ち、妻と結婚し、子供を育てるのが、基本モデルという事です。
もちろん、例外はあります。
それでも、人として、標準形の家族を持つ人生は、普遍な事です。
それが、人として送るという事にもなるのです。
誰も、否定できない存在様相という事です。
 ところで、一人の人間として、修行の道を歩む着陸地点は、家族という事です。
修行は、自己管理の道を追求できました。
肉体を管理し、魂を磨いたものです。
そのような日々が、極真の修行時代であったのです。
私自身、現役を三十四歳で終えて、その半年後に妻と家庭生活に入ったのです。
夫婦になるという事は、この年齢でも勇気が必要でした。
一人の気軽さから、相手を連れ添うという事になるからです。
それは、邪魔という事ではなく、愛情で包むという事を意識せざるを得なかったのです。
両親から受ける愛情と、妻から受ける愛情が重なり合ったという事です。
その後、子供を授かるようになりました。
そうすると、子供を愛するという情が沸き上がるのです。
このように、家族を持つという事は、心が広がったことになったのです。
実に多方面から愛情の刺激を受けるという事です。
自分の関係する絆が深まるのです。
私自身という人格が、家族という環境の中で、育つのです。
ふり返るまでもなく、充実するのです。
このように家族を形成したことによって、地域社会にも融合していくのです。
何故ならば、地域社会も家族のつながりになっているからです。
さらに、家族は、利害ではなく、愛情でもって、結ばれるのです。
あらゆる種類の愛情に満たされるという事です。
そして、生活する中で、愛が実に美味しいのです。
人と人を結び付ける最小単位が家族という事です。
人を結び付ける紐のようなものです。
家族を大切にするという意識は、修行時代の女性の誘惑に負けないという信念でした。
まさに、又八の生き方ではなく、武蔵の生き方という事です。
それ故に、誘惑に負けなかったご褒美を、家族として受けているという事です。
最大幸福を抱く、原点が、修行時代で、武蔵のような生き方という事です。
このような家族を持てたという事が、地域社会を優しく包む眼になるのです。
私自身、これからの願いは、権力でも、お金でもないのです。
ただただ、愛情を中心として充実感を願うのです。
その為に、人生という生き様があるのです。
それを人生の目的にして、何が悪いかという事です。
今までの修行の結実点を、家族に結び付けるように舵を取った人生という事です。