2017年7月31日(八段語録3088)
個人から家族主義への転換

極真会館の道場訓は、吉川英治作なのです。
それは、大山総裁の原点が宮本武蔵なのです。
修行の原点なのでしょう。
空手の修業を宮本武蔵になぞらえることが多いのです。
私としても、空手修行に、すんなりと取っ掛かる事が出来ました。
武蔵は関ヶ原の合戦で、西軍に加担して、敗北するところから始まるストーリーです。
若くして、功名に生きる若武者の姿が描かれているのです。
小説ですが、実話として修行する者に訴えるものがあるのです。
私自身、宮本武蔵は、映画でも小説でも、眼を食い入るように関心を持ったものです。
それになぞらえて、修業を試みた訳です。
それだけに、あらゆる修行の試練の場面に、教訓となるのです。
私にとって、極真空手と宮本武蔵は、切っても切れないのです。
実に、実戦空手と宮本武蔵の真剣勝負が合致するのです。
また、私の頃は、池袋の総本部は女性と稽古をしないのです。
女性は、壮年と稽古をしていた記憶があります。
それ故に、恋愛を御法度にして、修行に取り組んだものでした。
青春を振り返れば、空手修行の合間に全国を行脚したのです。
空手修行をしながら、魂の学習をしたものです。
沢庵和尚のような人も現れました。
私の場合、男性ではなく、八歳年上の女性でした。
九州大学哲学科出身の烈女でした。
ご主人は、早稲田大学の土木工学科のように記憶しております。
何か事あるごとに、相談に乗ってもらいました。
それが、人生の支えになった事は言うまでもないのです。
勿論、私自身、孔子・孟子を始め、あらゆる魂の書を読み漁りました。
肉体を鍛えて、極真ボディを形成し、より広い世界を相手にしようとしたのです。
空手修行は、学ぶことの意識を伴ったので、知的にも私の人生に光明を与えてくれたのです。
それ故に、慕う妻の千順さんと共に人生を過ごしますが、
三十四歳での選手生活を終えるまで、手も握らなかったのです。
原点が、宮本武蔵とお通の関係を想わせる過ごし方をしたという事です。
勿論、他の女性には、関心はありました。
その思いを断つのも修行の道にしたのです。
それは、振り返ると懐かしい思い出になっているのです。
ところで、極真の道を歩んでみて、人生の重要な事は、「家族」であると気付かされるのです。
この「家族」が人生に愛情をもたらせてくれるのです。
それも、家族の響きは、水も漏らさぬ一体感を感じるのです。
また、血の繋がりということにもなるのです。
中途半場にはならないのです。
日々、家族愛情の建設が人生であると信じられるようになっているのです。
宮本武蔵は、剣の修行と闘いを描いています。
しかし、お通とのその後の関係は描かれていないのです。
宮本武蔵の「家族」の人生は何処にも表現されていません。
だから、価値がないと言うのではなく、私自身に、その家族を問いかけるのです。
最近は、離婚・再婚・略奪婚・不倫と家族崩壊のニュースが目立ちます。
人として最も悲惨な家族崩壊に突き進んでるように思うのです。
結局、自分だけしか考えられない生き方が、全てを崩壊させているように思うのです。
あれ程までに、結婚で永遠の愛を誓っっていながらなのです。
持論ですが、個人は、家族愛の共鳴体でなければならないと思うのです。
素晴らしい楽園になるかどうかは、家族そのもののあり方にあると思うのです。
個人として、妻のことを、出来るだけ知ろうとします。
また、子供たちのことに関しても、関心のアンテナを立てるのです。
個人として家族にできる事は、何かと問うのです。
家族の全てを把握する事は不可能です。
個性のタイプも違えば、一日のスケジュールも違うのです。
最低限、食事での会話ぐらいです。
それでも、知り合うということに関しては、根気がいります。
それだけに、家族に関しては、共鳴体になろうとするのです。
つまり、私の場合、音叉方式を試みるのです。
心を響かせる状況を如何に醸し出すかということです。
それは、思いやる心ということです。
その心を大切にすることが、個人として大切であると思うのです。
個人としての働きかけが、思いやる愛情ということです。
そのような心は、不思議に気持ちが通じるのです。
家族の一人一人を知ることも大事ですが、通じることが最も大切なのです。
そうすると、お互い同質の薫りを放つようになるのです。
信頼は、知ること以上に通じ合うことです。
それも、思いやる心で築き上げるとするならば、永遠に繋がるのです。
そのような、愛情を放つ発光体でありたいと思うのです。
そのような人生を実践しようとしている日々です。