2017年7月30日(八段語録3087)
人生如何に行くべきか

手塚夫人と成田からヨーロッパに旅立つ中、草創期の話を聞きました。
ベルギーで、アメリカから、伊藤師範と合流しました。
今回は、四日間のサマーキャンプです。
いつもと違って、短いキャンプです。
機内では、手塚夫人との会話が弾みました。
主に、手塚道場生の内容です。
印象的に心に残ったことは、全財産を投げ打って、極真空手に打ち込んだということでした。
自宅も改造して、道場にもしたのです。
物的なことだけでなく、人材をも育成したのです。
道場生は勿論のこと、問題児も何人も下宿させて、育てたのです。
それも、我が子と分け隔てなく、学校に通わせたのです。
人を育てるということを、生活を通じて実戦したのです。
そのような決断は、夫人には内緒のようでした。
最終的には、事後報告だったのです。
夫人は、葛藤しながらも勇気を持って対応したのです。
息子の弁当と、預かった子供の弁当を毎日作ったそうです。
その面倒を見て行く精神が、手塚グループには、息づいているのです。
さて、草創期の手塚会長の姿勢は、このグループの理念になりました。
家族として、グループを愛情で包むという精神が息づいたのです。
多くの青年達を排出してきたのです。
極真の指導者になる人材も、多数排出したのです。
そのような草創期には、様々なドラマがありました。
愛情を注いでも、裏切られるということも続きました。
それでも、会長は、じっと耐えてこられたのです。
それだけでなく、「彼らは戻ってくる」と口癖に話していました。
普通であったならば、怒り心頭というところです。
そのような反逆にも、見向きもせず、前を向いてグループの開拓をしたのです。
それも一人での歩みなのです。
このヨーロッパの開拓も、アラン師範との出会でした。
それも、食事を作り、もてなすのです。
そして、信頼関係を深めて家族を育てるように対応するのです。
極真空手の伝播だけでなく、家族のつながりを持ったのです。
この姿勢と理念は、大切にしなければならない内容ということです。
その偉業の継承に、夫人と共にできる栄誉に預かっていると感謝するのです。
ところで、極真会館で、会長のような指導者は、珍しいのです。
私は、結果的に総本部、高木道場、森周治道場、長谷川道場、関西本部、安斎道場と渡り歩きました。
どの師範も、極真空手には熱心な指導をされていました。
しかし、家族で繋がろうとする指導者には出会わなかったのです。
一風変わった指導者であったということです。
私にとって、渡り歩いて七番目の道場が手塚グループなのです。
昔は、仕事先で、道場に通えたのです。
それも、同じ帯で、同じ待遇を受けたのです。
今は、派閥に分裂してしまったので、渡り歩くことはできなくなりました。
極真会館の中で、かつてこれほどまで、変遷した道場生も珍しいということです。
それも、決して修行を怠ることはしなかったのです。
そして、最終的に、姿勢と理念が合致した指導者は、手塚会長のだったのです。
偉人伝を読むと、醜いアヒルの子からの物語で、始まります。
決して、世間から受け入れられないところが多いのです。
それだけであると、変人極まりないのです。
そのような、変わった人が、手塚会長のような気がします。
手塚会長は、最終的にやってのけたのです。
苦難と困難の道を歩みながら、グループを世界に拡げたのです。
決して、個人的な事には走らなかったのです。
また、目先の利益にも一切感知しなかったのです。
他人が見てようが見ていまいが、黙々と一人で基盤を作ってきたのです。
私が、カバン持ちをして、世界を回ってきましたから、証人という事です。
つまり、会長の足跡は、真心を尽くした歩みだったのです。
このような姿勢は、これからの弟子達にに伝えられるべきと思うのです。
多くの人の希望の星は、個人だけのために生きる人ではないのです。
個人だけの為に生きる人は、光を残すことはできないのです。
また、誰も守ることもしないのです。
会長は、一人で黙々と、このグループの礎を築いてきました。
その理念と姿勢を守って、世界に広げるのが私の役割ということです。
そのレベルに特化して、貫く人生でありたいと思うのです。
それが、会長に託された私の人生であると思うのです。