2017年6月25日(八段語録3080)
第二章 武士道の自戒に立つ理想の家族

それでは、どのような家族としてのグループを築いて行くべきでしょう。
戒律のような戒めだけで、家族が形成されるわけではないのです。
とくに、道場ですから、各々の道場生の家族に踏み込むことはできません。
それ故、指導者が道場生の指導が主体になります。
もちろん、御両親に対するアプローチは、日々の稽古の中で対応します。
そこで、指導の原点をどのようにするかという事です。
指導者が親代わりなるという事を、自覚するのです。
指導者の指導を真摯に受けるよう道場生に努力させるのです。
そして道場生が、尊敬の念を抱くような指導者についていくのです。
それが、どうして家族の理想を描ける道場になるかという事です。
指導者に対して、道場で指導を受ける道場生であるという実感をしてもらいます。
それが、親に対して、子供であることの実感という事にも通じるという信念です。
もちろん、両親の努力も必要です。
できれば、親にも、道場生になることを勧めるのです。
親から育てられて、何の感謝も礼節もおぼつかない道場生に対して、武士道の理念で感化するのです。
それ故に道場の指導者も、子供が親に対するように、グループに対しての不満は付き物です。
ましてや、小学校高学年になると、不平不満ばかりぶちまける子供たちが増えてきます。
指導者は心を収めて、子供達の心を凌駕し感謝の心を持つように育てるのです。
それが、極真手塚グループの道場のアイデンティティということになるのです。
さて、道場として、理想の姿は、家族であれば、子供として成長させることです。
そのために、道場では、外注されたものとして、養育係を買って出るわけです。
そのための、指導が道場での修練なのです。
道場での稽古によって、親より育てられているという事を実感するのです。
そして、素晴らしい家族の一員であることの自覚を道場生に促すのです。
しっかり、正しく愛情を受けるという姿勢を学ばなければ、その自覚は生まれないのです。
その学びが、しっかり、道場で、武士道を通じて、人の道を学ぶという事になります。
それを日々の稽古は担うのです。
そのような理由から、道場生に願われることは、家族の一員としての自覚を促すという事です。
家族団欒の時でも、学校でも、道場でも、家族の尊い子供であることの自覚がもたらされるわけです。
それによって、しっかりとした個性を自由に表現できるというものです。
道場での指導だけでは、修練という事ではありますが、教育には不十分です。
親に対しても、心構えを説くのが道場という事にもなります。
それ故に、できるだけ、道場に来ていただき、道場生の成長を目に焼き付けて貰いたいものです。
 ところで、道場としては、指導者が確立することを願われます。
親の身代わりに指導することは至難の業です。
何故ならば、道場は指導者一人で指導するのではないのです。
師範を中心として、事務局長、会計、指導員が一丸となって取り組みます。
そこで、道場の指導内容の指示と確認をするわけです。
時には、指導内容が高く評価されて用いられることもあります。
逆に、指導内容を修正しなければならない時もあります。
その修正が入ったときに、甘受できるかという事です。
プライドがある指導者が謙虚になるには、自己否定という過程を通過させられます。
それに耐ええるだけの精神力がなければ、吹っ飛んでしまいます。
長いものに巻かれるというのではなく、新しい創造性を発揮するようにするのです。
それで、建設的な意見を述べながら、黙々と実践するのです。
日が当たるときもあれば、日陰の時もあります。
めげずに、上部を批判するのではなく、実践と実行力をもって、進言するのです。
そこで、批判だけで、終わらせたならば、それだけの事です。
 結論として、指導者がより建設的に発想をして、改革の担い手になる事です。
実に、象が針の穴を通るよりも難しい道です。
その偉業をやってのけてきたのが、今のトップに立つ指導者なのです。
誰が見ても、望ましい指導者として成長しているのです。
それを、道場生と両親が見ているという事です。
安易に、不平不満を道場生と一緒にまき散らせば、魔の手に陥るだけです。
指導者の健全な姿勢が、個人の勝利と、道場のレベルアップにつながるのです。
ほとんどの指導者は、心の葛藤を越えて、前進しています。
越えられない試練はないのです。
このような闘いを進める、このグループは、誰が見ても望ましい指導者像を作るはずです。
その先頭に望ましい親に抱かれるような道場生が育つというものです。
それを、望んで良き家族の担い手になっていくのが、手塚グループという事です。