2017年5月7日(八段語録3061)
稽古による精神修行
田植えが始まりました。
トラクターに稲の苗が積まれ、手際よく機械で、植えられていきます。
ちょっと、隅の部分だが、人の力で、植えられるのです。
実に便利な時代になっています。
根白石の別荘からは、農家の主人が、トラクターを運転する、農作業が行き来します。
農業道路は、農家の人達の車が、縦列駐車でいっぱいです、
朝夕の気温差が大きいので、稲の苗以外は、少し、日にちを置いているようです。
そのような、のどかな風景が広がっています。
私の事務室からは、田園風景と、緑に包まれた街並みが、左右に展望できるのです。
この場所は、昔白石城があったのです。
気分は、一国一城の主という事でしょう。
前後左右、パノラマ風景が、美しく輝いて見えているのです。
自然は、心の純粋さを要求してきます。
極真空手の修行の境地は、純粋な心を保つという事になります。
試合に負けたり、挫折をしたり、修行の道は様々です。
その、結果を整理して、細かく分析して、素直な心で、次に備えるのです。
この修行は、人としての成長の為に、日々行います。
稽古は、日々汚染された心を、空気清浄機のように、クリーンにするのです。
ストレスやうっ憤、それなりのジレンマを解消するわけです。
そして、再び深い呼吸を取り戻し、健やかな良き心の状態になるのです。
「怒った心」「不安な心」「挫折した心」は、汚染された心に匹敵します。
多くの世間の人達は、様々な方法で、気持ちの良い心を見出そうとします。
それなりに、良い結果も生まれるというものです。
しかし、私たちは、生涯の修行を空手の道に置き、パワフルな空気清浄機を、稼働させるのです。
他力ではなく、自分自身で推し進めていくのですから、力強いものがあります。
どころで、私自身の心のトラブルも、三年余りの歳月をかけて、解決の道を見出したのです。時間が解決してくれるという事もありました。
実に、正常な状態に至り、静寂を味わう事ができるまでに、遠回りするものです。
その間、混乱と散漫さと向き合い、可能な限り消化しようと、心がけたものです。
自分に住む、「扱いにくい怪物」を把握して、エネルギーをパワフルに出力するまでは、時間がかかるものです。
修行の経験上、道場生に対しては、この空手修行が、生涯役立つという事を、主張するのです。
私自身、弱い心の状態が続くことが多かったのです。
その心によって引き起こされる現象は、「嫌悪感」であったりするのです。
その心からは、相手に対して、「軽蔑」しか生まれないのです。
それで良いと思うと、心は限りなく汚れてくるのです。
その行先は、相手に対する裁きであったり、無視であったりという事です。
もちろん、それなりに、恰好がいいように思うのですが、神仏の心からは程遠いのです。
到着駅が、乱れた心であり、汚れた心に至るのです。
私たちが、日常ニュースで見るのは、事件事故が多いのです。
親子の殺害を始め、様々人の悪行を観るのです。
それは、まぎれもなく、「妬み」「嫉妬」「貪欲」に、はまり込む人間の邪悪なる姿なのです。
その人の心の姿を映し出し、すべてを表して除去する以外にないのです。
これが、人としての「心の弱い状態」であり、しいては、「汚れた心」という事です。
このような、心を消化しなければならないのです。
もちろん、時が解決してくれるという事もあります。
しかし、他力では、根っこは残ります。
それだけに、修行を通じて、自分で切り開くという、手法を取るのです。
したがって、弱い心の状態を知ることができるのは、日々の稽古であると断言します。
稽古は、自分の心の状態を把握することができます。
すべてが、稽古に現れるからです。
そして、再び、活気に満ちた純粋な心を取り戻すのです。
潜在的な危険極まりない心の料理は、学力でも、美貌でもないのです。
ただ、稽古による精神修行という事です。