2017年5月5日(八段語録3059)
心と体との調和

 こどもの日、農作業です。
健全な心を、豊かな自然環境に求めているのです。
確かに稽古は、必要です。
それでも、自然が用意してくれた環境に、心は奪われるのです。
鳥はさえずり、ウグイスも、この季節になると、上手に鳴くのです。
日差しも、眩しくなってきました。
無我夢中で、人生を送ってきましたが、自然に身を委ねるという事を、今は願うのです。
朝に、農作物に水を注ぎ、庭の草取りをするのですから、余裕が生まれているのでしょう。
大切な一日、この日を味わうために、極真の修行はあったと思うのです。
今は、心を悩ますことは、少ないのです。
大切な日々を過ごせるという環境に、身を置いているのです。
人生の、ご褒美のようにも思います。
 さて、このような自然に正しく身を委ねることができるのも、日々の稽古のおかげです。
稽古をすると、肉体の健康管理をするようになります。
そうでないと、稽古が続かないのです。
また、稽古に取り組もうとする意欲も、必要ですから、心の健康も保とうとするのです。
試合に出場した経験は、人生の闘いをする上で、役立っているのです。
自然にあらゆることに、正しい反応ができるようになっています。
どんなに、理不尽なことに出会っても、忍耐ができるという技です。
今は、ほぼ反射的反応になっているのです。
体系的に、どんな理不尽な攻撃に対しても、打ち勝つ習慣がついたという事です。
心に平常心と、平和を抱く生き方の、探求という事です。
人を批判し、不平を言っても、何ら心の平和とは、結び付きません。
それ以上に、周囲に、否定的影響を与えるだけです。
もちろん、私の師にあたる先生には、すべて話すのです。
それ以外の、否定的表現は、無意味という事です。
 ところで、現実は、葛藤、焦燥、渇望、恨み、分裂に出会うものです。
そこで、このような、現象に出会ったとき、心の鍛練が生きるのです。
信頼した組織が、現実に負の連鎖をしているのを、観るのです。
それに対して、無関心ではいませんが、心は痛みます。
それでも、利己的自我や、思惑の惰性の、奴隷にならないようにするのです。
修練さていない心であれば、外部からくる情報を、そのまま受け入れてしまいます。
修練された心は、稽古も一生懸命になります。
また、外部から情報に対しても、的確に対応することができるというものです。
そのような、未熟な自我を、成長させなければいけないという事です。
惰性の自我と決別して、静かに心を落ち着かせるわけです。
道場で、心身の統一を願って訓練してきたのが、今の姿という事です。
こうして、伝統的道徳観に立脚して、今を生きるという事になります。
 道場の方針として、家庭を持ったならば、不倫と浮気は除名の対象にしています。
理由は、家庭を壊すからです。手塚会長の口癖です。
また、極真空手の修行は、武器を身に着ける訳ですから、人を傷つけてはならないのです。
もちろん、心に対しても、傷をつけてはならないと説きます。
邪悪な罠に、陥らないようにという修練を、稽古で心がけるのです。
このような精神性を、手塚会長は残してくれました。
チャンピオンになると、妄想を作り出し、自らの惰性・欺瞞、犯罪までも正当化しようとします。そのような人が多かったのです。
そのような意味でも、伝統的な道徳観の原則から、外れないようにするのです。
このような姿勢が、手塚グループという事です。
稽古で、予期できない環境も、常に乗り越える訓練をするのです。
会長から学んだことは、一度の失敗が人生を狂わすという事です。
このような、心と体の調和の維持が、日々の稽古であると意義付けているのです。