2017年4月13日(八段語録3046)
叔父の一周忌

今日、母の兄の従之叔父さん一周忌を迎えました。
早いものです。
一年の月日はあっという間ということです。
朝六時から、ブログを書いて、家族としての、夫婦としての意義を書き連ねていました。
それも実に楽しいことでした。
あっという間に、時間が過ぎててしまいます。
母が入院しているスペルマン病院に出向いて、母を連れ出し、十一時半には、「やまぼうし」という会場に到着です。
私達が一番乗りと思っていましたが、一周忌の法事が、十時から母の実感の金森家で行われているということでした。
時間の読み違いで、結局法事の食事の会だけの、参加ということになりました。
それでも、食事の会場で合流して、親戚である母の兄弟家族との「会話」を楽しむことができました。
母の森家を築いて来た誇りは、相当なもので、どのように家族を守って来たかということを、話すのです。
財産を築いて来た経緯や、子育て、親父をどのように支えて来たかということを、克明に話すのです。
さて、「やまぼうし」というホテルは、母の実家の裏山なのです。
私が小さい頃、登って、薪を集めたり、この山で遊んだものです。
今は、「山ぼうし」というホテルと温泉になっているのです。
この会場にいると、小さな頃が、思い出されるのです。
私の足跡が記憶の中に蘇ってしまいます。
そして、今との比較をするのです。
夢が叶って、今に至っているということなど、口を裂けても言えないのです。
挫折の連続で、今まで試練に吹きさらされながら歩んだ人生であるのです。
よく残ってここまで歩んだということです。
それでも、極真会館と出会って、自分をいじめ抜き、自己否定と空手の、修行に明け暮れて来たということです。
過ぎてみれば、朝露のごとくです。
公務員であるならば、六十歳定年て、今は嘱託ということでしょう。
しかし、この極真に所属しているということで、今から責任を負うような立場なのです。
それ故、現役であり、乗るか反るかの戦いの連続に身を置いているというところなのです。
ところで、これから、会長代行として、この手塚グループの舵取りをしようとするのです。素晴らしいことに、会長婦人が有能なのです。
ずば抜けた能力を兼ね備えているのです。
それも、クリスチャン生活をしていて、善悪の判断基準は、神を中心として公正なのです。
すぐに課題の着手にあたり、トラブルを寸時に解決してしまう勢いなのです。
実に有能な伴侶を地上に残してくださった手塚会長であると、関心するばかりです。
もちろん、会長代行の私としては、活用しないという選択肢はないのです。
私としても、包み隠さずに、話ができます。
そして、より良い解決策として、消化することができるというものです。
私が責任を果たすということにおいては、実にラッキーということです。
スタッフに恵まれ、さらに、気持ちで組織に愛情をかけてくれる会長婦人を味方にできたということです。
そのような準備を、天はようしてくれたと思うと、感謝の何物でもないということです。
今回のお別れの会と新体制の出発で、重要なことは、会長婦人が、手塚グループの愛情をもって、精神的問題に道筋をつけてくれるということです。
色々な事を口実に、話し合って、明るい光明の出口が見えて来たというものです。
実際に新たなる出発の新体制で、門出を手塚婦人と歩んでいくことができるというものです。三月五日の新体制の出発にあたって、有意義な時間を持てるという期待感があります。
一周忌の親戚が集まった場所でも感じることができるのは、親戚同士、お互い尊敬しているということです。
話し合いながら、屈託のない会話で心は通じるのです。
それと同じように、このグループもお互いに尊敬し合う仲間であるべきと思うのです。
信頼し合う関係には、心がウキウキして来ます。
そして、楽しいのです。互いが互いを尊敬しあう関係、思いやる関係は、喜びも共に分かち合えると確信するのです。
確かに先輩後輩の関係はあります。
あるいは、段位の違いもあります。
それも含めて、良きグループとしての家族を形成することができると確信を持つのでした。
 出発時に思うのは、このグループの責任者は、互いに尊重しあう仲間であるという実感です。
会長をはじめ、お互いがお互いを思いやる雰囲気が漂うのです。
責任者である前に、お互いが極真会館を背負って立つ素晴らしい仲間であると思うのです。
確かに先輩後輩の関係、あるいは段の各位はありますが、喜びをともに分かち合える、人間関係であると思えるのです。