2017年4月7日(八段語録3043)
両親に感謝

平成四年、裸一貫のように故郷に帰りました。
四月の故郷の新鮮さは、心地よいものでした。
白鳥会館での親戚・地域の人達の歓迎には感動したものです。
実家に帰って何を志したかというならば、心底、親子三代での森家の繁栄ということでした。
その為に長男として帰ってきたのです。
地域社会にどれだけ貢献できるかという事を、目指したという事です。
そんな事を考えると、不思議に、森家のルーツを訪ねたくなるものです。
また、母方の金森家の歴史も振り返ったりしました。
森家は、金上家の祖父と森家の祖母で親父を生んだのです。
しかし、大人の事情で、離縁に至り、祖母の実家で、父が育ったのです。
本来ならば、金上家の血筋ということになるのでしょう。
それが、養子のように、森家で兄弟として、叔母さん叔父さんと、兄弟のように育つのです。
勉強もしたかった親父でしたが、尋常小学校しか卒業しなかったのです。
そのまま、少し年上の叔母さん部屋を間借りして、行商を行なっていたということでした。
一方母は、裕福な伊達藩の武士でもあった家でした。
父と結婚する時は、借金苦で喘いでいた時だったようです。
親戚の郵便局長の部下の使い込みがあって責任を取ったのです。
当時、借金の穴埋めで、四苦八苦かしていたようでした。
さて、両親はお見合いということでした。
母方は、例え借金苦で喘いでいる金森家であったとしても、伊達藩の流れの良家の娘であったのです。
その当時は、色白の美人ということで、父は、気に入ったのでした。
その証拠に、仙台から荷車を泉ヶ岳の裾野まで運んだのです。
母をその荷車に大事に乗せてきたというのです。
それも、額からも身体からも汗を滝のように流しながら、仙台市内平成一丁目の伊藤家のアパートに連れ戻ったのです。
両親の新婚生活は、うどんを一袋買ってきて、二人で食べたのです。
実に貧しかったのです。
母は洋裁を京都まで行って習っていました。
家計の足しに縫い物の注文を取っては、家計の足しにしていたのでした。
親父は、行商をしていたのです。
人が良いので、商品は買ってもらっても、代金の回収ができないようでした。
母が代金回収係になっていたということでした。
父の仕事ぶりに、危機感を抱いた母は、当時一流企業の太平住宅に勤めるように仕向けて、会社員として親父は転職に至ったということでした。
サラリーマンは親父には適職でした。
ところで、母は、良家の娘という自覚が強いようでした。
経済力の乏しい親父に頑張るように仕向けたことは想像がつきます。
それだけではないのです。
父の給料は絶対に使わなかったのです。
母が洋裁で稼いだお金だけを、生活費に充てたのでした。
また、貯まったお金で今の苦竹一丁目苦竹土地を購入したのです。
実家の兄の従之叔父に、材木を頼んで、一軒家を建てるのです。
親父も一国一城の主人ということで、気分が良かったようです。
それだけではなく、一軒家の三分の二は貸家にするのでした。
もちろん、子供の私は、小学校五年生から夕刊の新聞配達でした。
私が小学校を卒業するようになると、今度は下宿棟を建てて、賄いの仕事の自営をするのです。私の一人部屋も下宿棟に一室構えてくれたのです。
新聞配達と部活の柔道をしながら、勉強もするようになっていました。
勉強は苦手でしたが、両親の姿を見て、仙台高校にも入学ができたということです。
その後も、農地の親戚からの購入、愛子地区の土地の購入と家の建築をするのです。
しっかり貯蓄しながら、財産を築いていくという母の姿でした。
私はというならば、それを土台に、高校卒業すると、家出をして、世界中の旅にでるのです。
その間、両親は、息子が帰ってくる事を前提に、やはり貯蓄するのでした。
帰ってくるとすぐに、セキスイホームに注文をして、私の家庭の家を建てるのです。
それも、六LDKの広さなのです。
私はというならば、一銭の金銭も出すことはないのです。
そして、大人になってからの大学の費用、大学院の費用も母が、まかなうのです。
また、相続は、全部私名義で、母は一切相続しないという徹底ぶりなのです。
結論として、両親は、息子のために、全生涯を捧げたと行っても過言ではないのです。
そんな事を考えると、私も息子の為に、全力で人生を歩んでいるような気がするのです。
私にはわかりませんでしたが、後継は、息子の私だったという事でした。
そのような良心からの愛情を携える気持ちを抱いて今日も過ごしているのです。