2017年3月30日(八段語録3036)
会長の四十九日法要
鶯谷の瑞輪寺で、手塚会長の四十九日の法要が行われました。
雪で新幹線が遅れるのではないかと、警戒して、前日に東京の日本橋の東横インに宿泊しました。東京駅北八重洲口から、ホテルのバスが出ているということで、待っていました。
予約と違った場所に到着しました。
それでも、苦情も言わずに、宿泊して、朝10時にホテルを出発して、山手線鶯谷で下車して、少し歩いて、お寺に到着しました。
少し早めに到着でした。手塚家の親戚一同を、お迎えして、日蓮宗の四十九日の法要を行いました。
続いて、手塚家の墓に会長の遺骨を納めさせて頂きました。
一連の流れの中で、会長を無事にあの世に送ることができたのではないかと安堵させて頂きました。
その後、親戚一同で、会食をさせて頂きて、共に供養の場をもたせて頂きました。
毎年、この端輪寺にお参りに来ることができるという気持ちになりました。
少し寒かったのですが、会長をお見送りしたという気持で、帰仙させて頂きました。
さて、一連の法要の流れで、今年の12月に一周忌を行うということでした。
もちろん、この時も、参加させていただこうと思っています。
会長が亡くなって、ぽっかり心に穴があいてしまいました。
それでも、時は流れています。
会長の意思を受け継いで、どれだけ、このグループをまとめ上げていくことができるかということです。
会長が残してくれたグループを、どれだけ、発展がさせるかということが、私に負わされている責任でと思っているのです。
会長の一環とした、姿勢は、自分を誇らないということでした。
上の立場に立って、下を見下ろすような姿勢は、取らないのです。
そのような意味では、家族という気持ちが強かったのです。
そして、道場生にも対しても、道場生の成長を寡黙に眺めて指導しているのでした。
会長も、色々と回りの古参支部長から批判されても、自分を弁明することもなかったのです。
また、その必要もなかったのです。
ところで、いつも心に置かなければならないことは、会長の願いに立って、自分を振り返らなければならないということです。
どのような師範になっているかということです。
父兄は子供の成長に関しては、常に真剣なのです。
その真剣な父兄の眼差しに真剣に答えていかなければならないのです。
道場の指導者が、自分の観点での、指導してはいけないということです。
あくまでも、指導員として現場を任されているとしたならば、会長がどのような気持ちで眺めているかということを、心に留めて置かなければならないのです。
父兄と一緒になって、父兄の目線で指導したならば、極真の伝統など吹っ飛んでしまいます。
あくまでも、会長の意思に従う指導に徹底すべきということです。
自分が、責任者になって、父兄と掛け合うという立場では、逆主管を受けてしまいます。
会長の願いに立って、父兄を指導する立場であるし、会長の意思を父兄に伝えるのが、指導員の立場であることを忘れてはいけないということです。
そのような気持ちで、私は、自分の気持ちではなく、会長の願いに立って、これから、推し進めていこうということです。
これから、道場生の為に、真剣に取り組むのが、これからの私たちの役割ということになります。手塚会長のように、決して自分を誇るのではなく、多くの道場生を家族ととして迎え入れるということです。
会長が認めてくれた立場だけ、生かされてきたのです。
これからも、指導員は、師範が認めてくれたぶんだけ、活動できるという意識に立って、道場生を逞しく育てて頂きたいということです。
そのような事を考えながら、会長をお見送りしてきたのです。
もう私自身に対しても、誰もが注意をするような立場ではなくなっているのです。
それ故に、会長と共に歩んだと追憶を大切にしながら、前進する覚悟を決めたのでした。