2017年3月18日(八段語録3030)
N曲線の人生

人生振り返ると、N曲線の人生を、結果的に生きているのです。
たしかに、志を持って、歩んできた人生でした。
浮浪者のように全国を三回も歩き回りました。
北は北海道から、南は沖縄まで、リックを担いで歩き回ったのです。
旅人と思われたり、山下清のように思われたりしました。
挙げ句の果てには、乞食同然のようでした。
宇都宮に定着して、十代の終わりでしたので、運転免許を取得したのでした。
相変わらず、家を一軒一軒回って、セールスもしていました。
また、借金でどうしようもなくなると、北海道札幌に辿り着いて、セールスをするようになったのです。
何人かの従業員と一緒に、自然食の販売をしたのでした。
それでも、上手くいかず、浜松で研修したり、千葉で勉強したりしたものです。片手に、セールスの本と吉川英治の宮本武蔵を座右の銘として、人生を励んだものです。
それで、少し自信も、身についたこともあって、再び、札幌に上陸です。
極真空手も辞めずに、自己成長のつもりで、修行をしていたのでした。
そこで、リーダーとして、店舗を構えて、運営に乗り出し、良き出会いをしたのです。
千順さんと巡り会え、遠距離交際でしたが、愛情を育んだものでした。
極真の修行も、ここでは、高木師範と出会って、選手に成れるぐらいの能力を身につけたものです。
二十七歳になると、広島に新たな開拓を見つけようとしたのです。
理由は、千順さんの故郷が広島にということもあったのです。
そこで、三年の間、店舗を構えて、営業活動をしていました。
その頃になると、総本部に出かけて、昇段審査を受けたものです。
二十九歳の時に、見事に、有段者になれたのです。
やっと一人前に認められるようになったということです。
それで、意を決して、東京に上京したのです。
全日本にも参加するようになりました。
結構強くもなったのです。
経営者としても、成長してきたのです。
責任を持って、一国一城の主人になるくらいの内容を身につけたのです。
実際、全日本にも参加するということと、店舗を経営の両立を図りました。
ある程度、経済面と精神面が充実して、妻と家庭を持つようになりました。
間も無く、息子の誕生を見たのです。
そして、大阪で新たに、開拓するのですが、娘二人を授かりました。
経営も空手も順調になっていたのです。
その時の事を思い出すのですが、人生の絶頂期のように、充実していました。
多くのメンバーを配下に置き、大阪一帯を仕切る勢いでした。
なんでも、仕切りました。
余談ですが、バンドを組んで、素人ながら、演奏会も開いていました。
もちろん、ボーカルは私でした。
そこから、天命を受けるように、故郷、仙台に帰ったのです。
全ての基盤をかなぐり捨てて、実家の後を継いだのでした。
最高の絶頂期から、無一文の裸一貫からの出発でした。
その時の心境は、乞食同然のような気がしました。
本当に何もなくなったように思えたのです。
それで、アルバイトをしながら、東北学院大学に通うようにしたのです。
その時、再び、極真の門を指導者として叩いて、自分の子供達門を極真空手で教育したものです。
学問も大学院に通って、深く経済学を追求しました。
一度、人生を踏み越えてきたという信念から、極真の師範になり、副会長になり、そして、今後会長代行を務めていこうとしているのです。
そのような経験から、青春時代を勢いよく、船出をして、頂点を極めたのです。再び故郷に帰るという事で、どん底を這い蹲り、再び、頂点を極めようとしているのです。
そのような人生を振り返って、N曲線を描いてきたという事を実感しているのです。