2017年3月5日(八段語録3020)
1月5日の手塚会長の死

眠る事が出来ない一夜となりました。
もう地上に会長はいらっしゃらないのです。
さらに、会長を葬儀で、見送ることも出来ないということなのです。
会長に、数日前から、電話を掛けていましたが、通じるはなかったのです。
かつて、六年前に、埼玉の師範から会長が救急車で運ばれて、病院に入院していると、連絡がありました。
新幹線に飛び乗って、廟院まで会長に会いに行ったのです。
その時は、会長は元気で、面会する事が出来、色々な話ができました。
今回は、そのようにはならないのです。
もう会う事ができないのです。
精神的に動揺してました。
それで、会長宅に電話をしました。
奥様が電話に出てくれました。「明けましておめでとう」と言われました。
会長の亡くなっているのではという事を話すと、「どうして分かったの」という事でした。
折りたたむように、家族葬で葬儀には遠慮して欲しいという事でした。
二十数年の間、家族の一員として、共に夢を追いかけてきました。
それが、最後のお見送りができないという事で、私は、電話で泣きじゃくってしまったのです。婦人に、葬儀に出席する事ができなくても、末席でも良いから、お送りしたいというお話をしました。
もう会長を思う思いだけだったのです。
そのような気持ちを伝えて、なりふり構わず、車に妻と千葉に向かったのでした。
私の精神状態がかなり動揺しているという事で、妻が車の隣に乗ってくれました。
妻は、見るに見かねてという事です。
交通事故を起こすようでは、大変であるという事で、心のケアに徹してくれたのです。
三時間あまり運転して友部サービスエリアに駐車していた時に、会長の奥様から、電話がありました。
葬儀に参席してくださいという電話を頂きました。
心のつっかえ棒が、取れたようになったのです。
亡くなった事は、紛れも無い事実です。
それでも、会長を送る事ができるという事で、気持ちは前向きになったのです。
会長の御遺体に対面できると思って、ご自宅を訪問させていただいたのです。
ところが、御遺体は、冷凍保存されて、別な場所に安置されているという事でした。
会長宅の執務室を眺めながら、会長が生きている時に、私と電話で会話をした場所を見る事ができました。
そして、最近の会長の様子も奥様から聞く事ができたのです。
結局三時間余り、ご自宅でお話をさせて頂きました。
ところで、ご自宅に伺うと、会長が今でもいらっしゃるように感じるのです。
これからどのように極真会館手塚グループを運営して行っていいのかという事を、指示してくれるような気がしたのです。
長い時間滞在させていただいたことによって、生前指示を受けていた事が、走馬灯のように思い出されるのです。
私もそうですが、各県の師範が葛藤している内容は、全て今までの会長との願いにあると、思うようになっているのです。
そして、その意思を受け継ぐということに徹するということにしたのです。
現状を継続するということが、私の務めである思えたのです。
継承を正しくするということに徹するのです。
会長には、魂だけになっていますので、道場責任者で手分けして、歩もうということです。
私が、会長代行になって、実務面の事務局長を立て、団体の閉鎖と、新たに創立させていくということの準備をするということです。
最低、三人の師範が献身的に対応しなければならないということになります。
会長の意思を受け継いで、どのようにする事ができるかという事を模索しはじめていました。。
御自宅に滞在したが故に、直接会長の指示を受けているように思えたのです。
もし、仙台にいたならば、周りの影響を受けて、会長の願いに立つ事ができなかったかもしれないのです。
その為、千葉にきた事が、心が落ち着くようでした。
私の心には、素晴らしかった手塚会長という指導者出会ったという気持ちだけなのです。
それだけに、組織がバラバラになってはならないという気持ちは強いのです。
そして、会長の意思を引き継ぐという事で、あらゆる議論が必要になってくるという事です。指導者が一つになって、活動に当たらなければ、会長の意思を受け継ぐ事ができないと判断したのです。
あらゆる、白熱した議論を行ったとしても、最終的には全体で議論をした方向で決定していくという事です。
これからは、指導者のタレントという能力に合わせて、役割分担をするという事です。
一つになって、一緒に進むならば、会長の願いに立つという事を意識させられたのです。
とにかく、まっすぐに発展させる事だと思うのです。
枝も葉も平均して伸びて生きます。
これが、曲がってしまえば、みな歪んでしまいます。
会長の意思を標準として、伝統を間違い無いようにしていきたいと思うのでした。