2017年1月6日(八段語録3017)
手塚会長

手塚会長が、一月五日の日に逝去されました。
会長は、執務室のパソコンの前で、ペンを取りながらの、容体の変化でした。
奥様が、すぐに救急車を呼んで、対応されたのです。
それでも、救急車の中で、意識がなくなりました。
そして、病院で、お亡くなりになったのです。
かつて、私は手塚会長に、二十年前に、直接出会って、ご指導を受け続けました。
その頃から、毎日、電話で長い対話が続きました。
会長は、私が主催する大会、審査会、合宿と様々な行事に、出席してく出しました。
それだけでなく、全国、全世界の巡回指導に共にあたったのです。
報告を埼玉の師範に受けてから、呆然とした状態になりました。
昨年は、これから、今年の準備をする為に、昨年中は電話でやり取りをしていたのです。
会長は、喉にバルーンを入れて、訓練して、喉の通りを良くすると話していました。
また、気管と食道の調整がうまくいかないということで、胃瘻も頭の中にあるという事を念頭に置いてると話してました。
もちろん、メールでのやり取りもしたのです。
その会長が、この世には、いらっしゃらないということになったのす。
自然に、悲しみが湧き上がりました。
会長の異変の連絡を受けたのが、地域の名士を囲んで、消防団を応援する新年会が開かれていた時でした。
胸騒ぎがありましたが、行事を優先して、家に帰ってから、連絡を取りました。
大変な事という事が、手塚会長の逝去という事でした。
もうその日は、眠れないのです。
それも、奥様がから、親族での葬儀を持ちたいという事で、道場関係者は、誰も参加はできないという事でした。
もう心は、二十年間もお世話になった恩師に、別れも言えないということになったのです。
気持ちは、複雑になりました。
亡くなったこともショックでしたが、別れの葬儀に参席できないということです。
「どうしよう、どうしよう」と心の中を自問自答するだけでした。
それだけではないのです。
現状の手塚グループを、どのようにして次の世代に残すかという事も去来しました。
それも、会長の願いの方向に一致して歩という事を考えたならば、もう眠る事が出来なくなったのです。
ただ、一人の個人が亡くなったのではなく、この団体を率いた総裁がが亡くなったのです。
当然、会長が逝去されたという事は、責任の全てが、私にかかってくるという事です。
というのも、会長と共に、世界開拓をしたのです。
ロシアのカザンに出かけて、ロシアを開拓しました。
ポーランドから手がけて、ヨーロッパの基本的な組織を作りました。
そして、アメリカに出かけて、手塚グループの版図を広げたのです。
もちろん、日本でも、宮城県本部の基盤拡大のために、会長が、尽力を尽くしてくれたのです。
それだけではないのです。
秋田の開拓、福岡、広島、大阪、新潟、福井、東京三地区と千葉と大きな組織を作ってきたのです。
また、会長が目指す、手塚グループの理念と信念を積み重ねてきたのです。
その内容は、私のブログの中で、一言も漏らさずに、書き記してきたのです。
会長との電話の交流の中で、「会長語録」が飛び出るのです。
この二十年の間、人生の中心か極真会館手塚グループであり、その土台に、私達家族が生かされてきたのです。
私の、子供達の成長も、極真空手と共にあったのです。
この二十年間は、会長と共に、一時代を築いてきたのです。
二人三脚での会長との歩みでした。
極真会館に於ける、日本と世界に関しては、私が奥さんのような立場であったのです。
つまり、会長の願いを吸収しならが、会長の伝統が息づく関係であったのです。
当たり前のように、手塚グループの中で、重要な立場であり、会長の役割を受け継いでいく、責任を全うする立場ででした。
会長との会話で、夢と理想がほとばしるのです。
会話は、いつも夢のような構想理想で満ちていました。
それを、一つ一つ、コツコツと開拓したのです。
日本全国で、さらには、世界で活躍する版図を広げることによって、生きる喜びを、会長と共に感じていたのでした。
毎日のような電話のでの対話は、「夢道場」そのものなのです。
そして、武道を追求し、極真会館手塚グループを守り、伝統を発展させてきたのです。
そして、これから続くであろう後輩に対して、いくべき道を準備をしてきたのです。
手塚会長は、もう地上にいらっしゃらないのです。
だからと言って、歩みを止めるわけにはいかないのです。
会長の願いの立場に立ってこそ、これからも会長と共に歩んでいくということであると思うのです。