2012年5月28日(八段語録1696)
極真空手の本質(道場訓)
極真空手は、武道という概念をことさら実践を通じて行動した場合にどのような事になるかを著した空手道なのです。つまり、実践空手こそ真の極真なのです。道場における稽古を見る限り、武人として人が変わっていく事を痛切に感じるのです。純粋に、稽古を通じて、道徳的な信条や、美的な麗しさが身について来るわけです。それは、道場の存在がそのように仕向けていくのです。
このような稽古の連続によって、道場生の全精神が、生命の根源である命の源にたどり着くとするならば、自らが救われることは言うまでもなく。人生モデルの標本として表現する事もやぶさかではないのです。このような精神態度が築かれなければ、極真空手の意味するところは、半減してしまうのです。ただ体を動かして、汗を掻くだけが道場ではないのです。
この稽古を続けることは、私が振りかえっても、精神修養の場であり、言葉に言い表すことができない境地の連続という事になるのです。最初に私達が目にするのは、道場訓なのです。それは、何かもったいぶった呪文のようにも思うのですが、内容を吟味するならば、魂の働きそのものなのです。道場訓に秘められた言葉そのものが、神秘的な力として、私の心に親しく連動してくれるのです。
ところで、道場訓は、吉川栄治が大山総裁に書き残してくれた、武道精神の根源のようなものです。そのような経緯もあってその名に値するのです。この内容をいつも唱和しながら、もし、稽古ができないとするならば、極真空手は存在しないことになります。一方この内容が稽古に反映されるとするならば、例え道場訓を忘れたとしても、必ずや生きた稽古になるだろうし、本当の極真空手が顕現するのです。
今まで、道場で稽古しながら、道場訓が無ければ、とっくの昔に止めていたかもしれないと思うのです。稽古を継続するうえで、私を孤独にしない、取って置きの御言葉でした。そして、その言葉は、今でも私の心の中で生きているのです。人生に迷ったならば、道場訓に立ち返るべきであると、今日は提言するのです。