2012年4月13日(八段語録1651)

人との出会いの中から


 自分の立場を考えてみたのです。六十歳になろうとするのですから、名実ともに人生の大先輩になってきているのです。見下ろせば、各年代の人達が一生懸命人生を開拓し、意義ある人生にしようと必死でいる訳です。この歳に至っただけで、今までの人生経験からあらゆる事をアドバイスする事ができるようです。人それぞれの人生に対して、適切な助言が与えられそうです。その意味でも、長生きして、人生を歩んだという事は、尊い事に感じられます。
 ところで、今の自分は、例え一文無しになっても、悩むという事はしないような気がします。この年齢になると、悩んだところで何の益もないという事を、余りにも実感してしまうのです。人生を生きてきて、最善を尽くし、結果は神仏にお任せするという境地になるのです。そして、人に人生に、興味を持ち始めるという事も事実なのです。色々な人との出会いは、少し話すと、かなりの影響力を持つ人物になってきているという事実を痛感するのです。
 というのも、振り返って人生を話すだけで、驚きと驚嘆の声が上がるのです。何気ない自分の発言が、修行僧として生きてきたようなインパクトを与えることが出来るという事なのです。例えば、今まで人生で、女性として愛情を注いだ人は、妻の千順さんだけだという話をするとします。この件に関しては、妻と出会う前からの話をするのです。そうすると、驚きの声を聴くのです。
 私の場合、天地に誓って妻一人だけ、女性として愛情を注いだという事を話すだけで、どのようにして、そのように高潔な気持で人生を歩めたのかという質疑応答になります。それは、当たり前の事なのですが、多くの人にとっては、天然記念物のように思われるし、本当の人生のモデルという評価なのです。もちろん、私の雰囲気からして、なんら孤独を愛する悲壮な人間としては映らないわけです。それだけに、特に対象の女性には、そのような男性との出会いをしたかったという話にまでなります。
 もちろん、自分の自慢話をしようとする気は毛頭ないのです。このような話を受け入れてくれる多くの人達が、今の人生の重荷に耐えて頑張っているという事なのです。過去の重荷と現在の重荷が加わっているように思うし、相当に耐え続けている人生であると思えるようになっているわけです。私との話をするうちに、あらゆる人々の重荷は、小さい事のように思えるようです。そのうちに、安らぎが取り囲んでいる様子が手に取るように映って見えるようになるのです。相手は、もう既に、私という実態を見ている内に、困難を予測するような発想をしなくなっているのです。もちろん、私のアドバイスは、決して起こらない困難なのだという、認識をさせてしまうようです。