2012年4月9日(八段語録1647)

春の農作業


 今年は、千順さんも下宿で忙しすぎるので、私が責任を持って、春の野菜の植え付けをしなければならないと感じているのです。それで、今日は、冬中休んでいた農地を耕運機で耕す作業をしているのです。昨年収穫して、そのままにしていたので、機械が農地を耕すのは楽ではないのです。力が全身に入るのです。機械と私が一体となって、大地をかき回すという気概で臨んだわけになります。先週、畑に粉まみれになりながら、石灰を撒きつづけていたのです。収穫した土地が、酸性になって、植物が育ちにくいためなのです。
 先週ほどではないのですが、強風が吹き荒れます。それでも春はもうすぐそばに来ているので、当然耕さざるを得ないのです。午前中から始まって、結局終了したのは、空が真っ暗になった夜の七時でした。最後は、見えない畑を耕しているように思えたのでした。今年もそうなのですが、私の講義が、土に愛情として伝わり始めているようです。もう既に親父と一緒に始まって、二十年の歳月が過ぎてしまったのです。最初は、機械的にしか、土と接する事ができなかったので、野菜の成長も、そんなに感動はしませんでした。しかし、今は違うのです。この農地が恋しいのです。そして、今後育つ野菜の準備の為に、精一杯尽くしている、真心を持った自分の心に気が付くのです。
 一から十まで、全部自分でやらなければ、気が済まなくなっているのです。そして、細かい所にも検討を重ねて、収穫の時を描きながら、額に汗しているのです。そのような自分の変身ぶりに、自分が驚いているのです。そして、大地に愛情を注いでいるという実感をするのです。この畑の隅々まで、自分の身体の一部であるかのように思えるのでした。夜になって、就寝したのですが、いつ寝たのかも忘れてしまうくらいでした。心地の良い一日が送れたのだという事なのでしょう。畑は、出来ることがあれば、それをやるという考えにしてくれるのです。そして、耕した後は、忘れるだけなのです。
 その充実感は、収穫の時を描いているのです。この作物が、数か月後には、収穫物として食卓に載るのです。収穫を描いた時に、今の土壌の耕しの意味と価値を噛みしめているのです。この収穫の感動が、今の時の土壌の耕しを意味あるものとしているのです。その力を自分ながら理解しているようです。