2012年4月3日(八段語録1641)

賢治さん来日


 アメリカから、去年の大震災の時に、子供達がお世話になった賢治さんが日本に来ることになったのです。福島の原発の件もありましたので、昨年三月に息子達を渡米させていたのです。その時お世話をしてくださった方が、賢治さんなのです。アメリカの公務員でありながら,有休を取って、アメリカの中西部のグランドキャニオンを初め、アメリカの大自然の中を旅してもらったのでした。それも無償で尽くしてもらったので、今回の訪日はとても喜ばしい事だという事で、家族で出迎えることになったのでした。
 そもそも、賢治さんは、福島の出身で、家族で里帰りという事なのです。家族が七人という事で、大家族なのです。予定は、家族全員が来られるという事でしたが、結局は、一人で仙台を訪ねるようになったのでした。理由は、震災の状況を写真に残したいという事でした。朝十時にバスで実家の福島から到着しました。早速家族全員で迎えましたので、ワンボックスタイプのグランビアは、満席になりました。子供達は、大はしゃぎです。
 ちょっと、早いと思ったのですが、原町駅にある家庭韓国料理のキムチちゃんに招待して料理の美味しい味で心満たしてもらいました。食事中、子供達とアメリカでの旅の思い出話に花が咲きました。そのまま賢治さんを連れて、妻と一緒に石巻まで、遠出をしたのです。石巻では、震災に直面した遠藤夫人が待っていてくれました。震災の時に過ごした、不安と恐怖の日々の話をしてくれたのです。その話を聞きながら、石巻市内を回り、日和山に登ったのでした。
 おりしも、最大に発達した低気圧の前線が通過するという事で、海から日和山に吹き付ける風は、風速二十メートルにも及んで、吹き飛ばされそうになっていました。その後、市道を下りて、海岸通りにさしかかると、風景は一遍しました。テレビによく出てくる、大川小学校の津波に呑みこまれ、火事に在って焼き焦げた校舎が残っているのです。その場所から、海まで、今は何もないので、終戦当時の焼け野原のように、地獄絵を書いたように、寒々しい光景になっていました。
 車を走らせて、女川まで辿ったのですが、被災にあった遠藤夫人から出る言葉は、地獄体験者のようでした。極めつけが、女川の高台にある医療センターで、安心して津波を眺めていた時に、後ろから津波が押し寄せて、眺めていた人達が、流されていったという話などです。聞くにつけて、浮かばれない霊が、救いを求めてくるような気がしたのでした。夕方まで石巻の写真を取り、仙台に帰るのですが、浮かばれていない霊がついてきているようで、とても重い気持ちを引きずったのでした。